恋の話に戻りましょう。愛しい彼女にすべてを捧げた若者には、ほんの少しのあいだだけ、天国にもひとしい至福の時間を過ごすことが許されます。
この時期のことは後からふり返ると、まさしく夢のようにしか思われません。それというのも、恋とは、1%の至福と99%の地獄に他ならないからです。彼女に捨てられたあとに、彼がさまようことになる砂漠の荒れ果てようときたら……。
ともあれ、若者は生まれてはじめて、かれの内面を分かちあうことのできる異性に出会うわけです。
愛しい彼女は、若者の内なる思想家や芸術家を引き出します。彼女が、自分のお気に入りの映画だとか、影響を受けた本について話しはじめるとしたら、もういけない。
内部性がかかわる恋は、ほかのどんな恋とも違っています。ここでは内部性という言葉を、「人間が、真理や美といった目に見えるものを超えるレヴェルの実在にかかわってゆくさいの経験のモダリティー」と定義しておくことにしましょう。
愛しい彼女との出会いによって、若者は、かれ自身の内部性をもはや後戻りのできないかたちで見いだすことになる。「かれは彼女のおかげで、かれ自身の魂の存在にはじめて気がついた」というわけです。
人間は、内部性の次元へと入りこんでゆくことによって、永遠なるものが存在する可能性に気づきはじめます。プラトンの『饗宴』は、恋と永遠なるものの関係について、すでに二千年以上前に問題を提起しています。
若者が恋している女性が内部性の次元に近ければ近いほど、かれも一層あの永遠なるものに近づくことになる。恋は、本来ならば哲学や芸術によってようやく触れることができるもののところに、一足跳びで若者を連れ去ってゆくのだといえるかもしれません。
彼女の口にした言葉や、その時に射しこんでいた太陽の光など、恋の体験においては、無数のディテールが色鮮やかに体験されて、その後も長く記憶のうちにとどまることになります。恋する若者はその時、おそらくは自分でも気づかないうちに、あのイデアなるものの存在に目覚めつつあるのでしょう。