イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

死の問題、あるいは哲学への挑戦

 
 死者の復活という出来事には、簡単には汲みつくしえない深い意味が含まれていそうですが、ここでは試みに、次のようにその意味を言い表してみることにします。


 「死は、乗り越えられうる。」


 神が、キリストを死者の中から復活させたとしてみましょう。このことは、自然科学のオーダーから見ると途方もないことのように見えますが、ライプニッツも指摘しているように、神は、存在するならば自然科学のオーダーを超えるレヴェルで働くこともできるので、復活は自然科学の知見とは矛盾しません。


 さて、その場合には、復活の出来事をとおして、人間は神から、もはや死を恐れる必要はないのだというメッセージを受け取ったことになる。キリストは、「わたしを受け入れる者は死ぬことがない」と言いましたが、かれ自身がよみがえることにより、その言葉の最初の実例となったといえるからです。


 人間が、自分の力で死を乗り越えるのではなく、人間にたいする神の愛によって死から救われるという可能性。キリストの復活という出来事は、そのような可能性を私たちに提示しているといえます。



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 「最後の敵として、死が滅ぼされます。」使徒パウロの言葉です。この言葉は、哲学の立場からみても、とても興味深いものをはらんでいるといえる。


 この世には、本当はきわめて重要であるにもかかわらず、ほとんど誰も問わないので、存在しないことになっている問題があります。死の問題は、その中でも最たるものであるといえるのではないか。


 どれだけ医療とテクノロジーが発達し、社会が進歩したとしても、死は人間にとっての最後の棘でありつづけるでしょう。この棘があたかも存在しないかのように生きつづけることはできますが、はたして、それ以外の道はないものだろうか。


 イエス・キリストの復活は、このように、哲学の営みそのものにたいして大きな挑戦を突きつけるものであるといえるのではないか。メシアの知らせは、ふだん隠れたままになっている問いを私たち自身に鋭く投げかけるものであるといえるのかもしれません。