イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

はるかなる道

 
 哲学には情熱の火、あるいは魂の炎が必要であるというのが、筆者の信じるところですが、最近になって必要だと特に痛感しているものが、もう一つあります。


 「哲学には、思考のたえざる鍛錬と彫琢が必要である。」


 哲学は、頭脳の活発な若者の思いつきだけでは立ちゆかないのだという意味のことを、ジル・ドゥルーズが言っていましたが、おそらく、この意見は正しいのでしょう。哲学者は、自分が抱えることになった問いを、親鳥が卵を守るように、大事に育てなくてはなりません。


 先日、哲学者の永井均先生とツイッター上でやりとりをすることがありました。先生の方から言葉をかけてくださったので、とても大きな励ましになりましたが、その後、哲学上の論点について少しだけ意見交換をさせていただきました。


 その内容については、ここでは割愛することにしますが、直接にやりとりをさせていただく中で、ツイッター越しではありながら、熟練したベテランのオーラのようなものを感じずにいられませんでした。とくに激しい論争があったというわけではないのですが、自分で対話に加わってみると、ほんの少しの間だけでも、永井先生の、ご自身の問いへのこだわりが伝わってくるようでした……!



哲学 永井均 ジル・ドゥルーズ キリスト
 
 

 ……というわけで、永井先生とのやりとりは、筆者には忘れられない教訓を残すことになりました。いわく、「その道の達人の域を目指すならば、生半可な覚悟でいつづけるわけにはゆかない。」


 筆者の場合には、神の愛や魂の救い、人間の心のあり方などといった主題について、毎日たえず丹念かつ真剣に考えつづけることが求められているといえそうです。特に、哲学とキリストの関係については、哲学史の徹底的な読み直しも含めて、深く考えつくさなければなりません。


 哲学の営みは、打ち込めば打ち込むほど深みが増し、面白くなってきます。けれども同時に、探求が進めば進むほどこの道のはるかさを思い知らされるというのもまた、確かなようです。大学をやめたとはいえ、哲学をすることだけはどうしてもやめられなさそうなので、荒野をさまよういち求道者として、キリストの哲学にこの人生のエネルギーを注ぎつくすことにします……!