イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

蓋然性と絶対性

 奇蹟のほうに話を戻しましょう。


 「奇蹟は、それを目撃したり、体験したりする人びとに、たった一度の出来事のみによって、それがまさに奇蹟であると信じさせる。」


 自然科学においては、基本的には事象の反復にもとづいて理論が組み立てられてゆきますが、奇蹟は、本質的に出来事の一回性をその特徴とします。この意味で、奇蹟とは、蓋然性ではなく神の絶対性にもとづいて真理が示される出来事であるといえる。


 もちろん、人間にはある出来事について、「これは絶対に奇蹟だ!」と断言することはできません。人間にできるのはただ、「私はあの時、奇蹟が起こったと信じています」と証言することだけです。


 自然科学の場合には、観測者が誰であっても同じ観測結果を再現できることが期待されますが、一回性の出来事である奇蹟の場合には、個々の証人の存在が重要になってきます。自然科学の真理と奇蹟の真理の違いをここで簡潔にまとめておくと、次の図のようになります(作成は助手のピノコくんによる)。



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 ここからは、奇蹟には、奇蹟に固有の真理性が関わってくると言うことができるかもしれません。この真理性は自然科学の真理性とはステータスが異なるので、一方のロジックを他方に転用しないように注意を払っておくことが必要であるように思われます。


 ここで、奇蹟という具体的なトピックをいったん離れて、より一般的な論点を提起しておくことにします。


 「哲学は、蓋然性の真理のみならず、絶対性の真理にも関わることをその職分とする。」


 〈物自体〉〈差異〉〈対象a〉など、哲学がかかわる知の対象は、いわゆる現象の次元を超える領域にまで及んでいます。そして、この事態のうちには、そうなるだけの必然性があるといえるのではないか。


 蓋然性にとどまることなく、絶対性にまで至ろうとする真理への熱情として哲学を捉えることは、絶対に確実な認識をめざして思索を重ねた、あのデカルトの熱情をふたたび引き受けなおすことにつながっています。筆者は、哲学的思考は、デカルトのいうような確実性には至ることができないにしても、デカルトとは別のしかたで絶対性へのアクセスの回路を探るべきなのではないかと考えています。