イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

人間の声と神の言葉

 
 「絶対的なものの秘密とは、愛である。」このテーゼについては、古来から人間が発しつづけてきた、次のような声を取りあげる必要がありそうです。


 1.「もしも神がいるならば、なぜこの世にこんなにも多くの悪が存在するのか。」


 悪という言葉をどのような意味にとるにしろ、この声について思索しつづけることなしには、信仰というものはありえません。しかし、この声に対して、信仰の言葉は次のように言っています。


 2.「神が、私たちの一人一人を愛している。」


 信仰者にとって、人生の問題とはつまるところ、1の声と2の言葉のぶつかり合いのうちに集約されるといえるのではないか。神が私たちの一人一人を本当に愛しているならば、すべての困難は乗り越えうる。もしもそうでないならば、ニヒリズムというあの古くて新しい敵の刃をかわすことは、どこかの時点で不可能になるでしょう。


 おそらく、1の声のうちには、人間の痛みが、癒すことなど到底できないようにもみえる、深い傷がある。この痛みは、今も毎日この世のいたるところで苦しまれている無数の痛みであると同時に、存在することの痛みというただ一つの痛みに、つながってもいるのではないか。



絶対的 悪 愛 神 ニヒリズム ドストエフスキー 無神論



  1の声のうちにも耐えがたい痛みがあるのと同様に、2の言葉を信じる人のうちにも、深い傷があります。その傷は、すべての「もう終わりだ」を超えて、一つの「わたしはあなたを愛している」を求めずにはいられないほどの傷です。


 この世のもっとも深い傷に苦しむとき、人間は、はたして何を信じることを選ぶのでしょうか。彼、あるいは彼女が見つめるのは、虚空でしょうか、それとも、神でしょうか。


 その答えがわからないまま、人間は、自らの声と神の言葉のどちらを信じるのか、いつでも問われつづけています。人間には、どちらが正しいのかを判定することは許されておらず、ただ、どちらを信じるのかを選択することだけが許されているといえます。


 信仰者が無神論のうちに落ちこみ、無神論者が神を見るこの深淵は、おそらくは哲学の問いがもっとも真剣に問われる場所であるといえるのではないか。ドストエフスキーという名前が哲学者にとって忘れがたいものであるのは、この聖人のような文学者こそが、他のどんな哲学にもましてこの深淵を真摯に見つめつづけた人だったからにほかなりません。