イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

三位一体論へ ー考察のおわりに

 
 今回の探求のおわりに、次の信仰の言葉に耳を傾けておくことにします。


 「真理はそれ自身、神である。」


 わたしとあなたの対話においてとどまりつづける真理は、信仰の言葉によれば、神そのものにほかなりません。ただし、この点は、神が人格を持った神であるというイデーと矛盾するように見えるかもしれないので、ただちに論点を補足しておくことにします。


 1.父としての神は、語る神である。(父の位格)
 2.子としての神は、語られる言葉、すなわち、真理そのものである。(子の位格)


 神は語る神でありながら、語られる言葉そのものでもあるというこのイデーは、三位一体論の核心のひとつをなすものです。ここでは第三の位格である聖霊の位格が残っていますが、それはまた後の機会にということで……。


 本題に戻ります。真理はそれ自身神であるという考え方はどうやら、時代と地域とを問わず、人類に普遍的に見られるものであるようです。もちろん、神が人格を持っているという考え方のほうも人類に共通のものなので、この三位一体論は、一見すると論理に反するようにみえて、実は人間の形而上学的コモン・センスに合致するものであるといえるのではないか。


 筆者は、アウグスティヌスやマルブランシュと同じく、三位一体論はさまざまな哲学の問題に新たな角度から光を当てることを可能にするのではないかと考えています。今回は「痛むことの真理は、子としての神である」という論点を指摘するにとどめつつ、この三位一体論には折に触れて立ち戻ることにしたいと思います。



神 イデー 信仰 言葉 父 子 形而上学 アウグスティヌス マルブランシュ 三位一体 対話



 対話における真理の臨在。痛みにおける神の真理。このブログも開始してから今月ではや2年になりますが、紆余曲折をへて、ようやく問わなければならない問いの圏域に本格的に入りつつあるような気がしています。


 本当は、もっと慎重に問題にアプローチしようと考えていましたが、最近は、もう後ろを振り返らずに無我夢中で問題から問題へと走り回るしかないかもしれないと思うようになってきました。あまり暴走しすぎないように気をつけますので、どうかよろしくお願いいたします……!


 というわけで、今回でいったん区切りをつけて、次回からはまた心機一転して話をリセットしたところから始めることにします。


 概念と概念のあいだに神が愛を注がれんことを願いつつ、読んでくださっている方にも何かの参考になることを願いつつ、また、逆流性食道炎の終わらない悪夢からいつの日か解放されんことを祈りつつ、今回はこの辺りで失礼させていただきます。読んでくださって、ありがとうございました!