イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「はじめに、ロゴスがあった」

 
 ロゴスという概念について語ることが難しいのは、ロゴスもまたイデアと同じように、信仰対象という性格を持っているからです。


 世界を創造する言葉という意味でのロゴスという概念をはじめに打ち出したのは、フィロンという古代のユダヤ人哲学者でした。そののち、それほど時を置かないうちに、次のような一文からはじまる『ヨハネによる福音書』が世に出て、世界の歴史を塗り替えることになります。


 「はじめに、ロゴスがあった。」


 この一文は、それだけでギリシアの哲学がたどった歴史を一点に集約するかのような一文であり、この一文が地中海世界の思想史にたいして及ぼした衝撃はすさまじいものでした。その次の一文もまた、この文と同じくらいに重要です。


 「ロゴスは、神とともにあった。」


 原文だと「ロゴスは神の前にあった」となっており、こちらの方が哲学的にみても事態に即しているように思われますが、いずれにせよ、ロゴスと神の関係が語られているという意味で、きわめて重要な一文です。そして、こののちの一文にいたって『ヨハネによる福音書』の思索は、最初のクライマックスに達します。



ロゴス イデア フィロン 三位一体 位格



 「ロゴスは、神であった。」

 
 神の前にあったロゴスは、それ自身、神であった。通常の論理からすればただちに矛盾しているかのように見えるこの展開はむしろ、『ヨハネによる福音書』の論理が、超論理とでも呼ぶべきロジックにしたがって思考していることを示しています。


 1.神はまずもって、語る神である。(父の位格)
 2.しかし神はまた、語られる言葉でもある。(子の位格)


 三位一体論と呼ばれる構造が、後にここから取り出されることになりますが、この三位一体論なるもののうちには、神学のみならず、おそらくは哲学そのものの秘密があるといえるのではないだろうか。


 筆者がそう考えるのは、父と子が異なる位格を持ちながらも同じ実体を持つということ、「ロゴスもまた神である」というテーゼによらなければ解決できないように見える哲学上の問題が、いくつも存在するからです。論理を破壊しかねないこのロゴスの思考のうちには、深く付き合えば付き合うほどに体感される、とてつもない潜勢力がはらまれているように思われます。