イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「生活のよりどころ」

 
 福音の核心について、さらに考えてみる。
 

 福音の核心:
 イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、墓に葬られ、三日目に復活した。
 

 使徒パウロは、「私たちが生活のよりどころにしている福音」という言い方をしている(『コリント人への手紙Ⅰ 』第15章)。最初はそこで言われてることの意味ははっきりとはわからなかったけど、最近になってようやくわかるようになってきた気がするのである。
 

 十字架と福音の意味って、たぶん考えだすとどこまでも終わらない。でも、とりあえず決定的に重要なのは、そこに神さまの人間にたいする愛が示されているということである。
 

 つまり、聖書によれば、神はどこか遠いところにいて自分たちとは全然関係なく存在しているのではない、ということである。エピクロス派の哲学者たちはそういう風に考えて、神々が存在しているとしても人間の人生とは全く関わりを持たないと考えていたようだけど、聖書が語るのは、それとは全く違った神の姿である。
 

 神が、今から2000年前のユダヤ人たちのところに、自分の子であるキリストを遣わした。もしそれが本当だとすれば、その神さまは人間のことを深く深く愛している、ということになるだろう。
 

 この見方によれば、人間は、大地の上に置き去りにされているのではない。人間がこの広い宇宙の中にただ放っておかれているのではないとすれば、それは人間にとって、どれほどの救いだろうか(cf. ジャック・ラカン的な「大他者Autre」の問題)。
 
 
 
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 そういう世界観のもとに生きてゆくならば、人間は自然と生きていることそれ自体にも安心できるのではないか。「生活のよりどころにしている福音」というのはそういう意味でもあって、ぶっ飛んでるようにしかみえない福音を信じることで、何でもないふだんの生活の色合いが少しずつ変わってゆくのではなかろうか。
 

 「そうは言っても、死者の中からの復活というのは、さすがにぶっ飛びすぎではないか。」それは確かに、その通りである。
 

 ハードルがめちゃくちゃに高いということ、これは否定すべくもない(余談:神がある意図をもって人間にこの異様に高いハードルを設定したとすれば、おそらくそこには、どこまでも深い意味がある)。これを受け入れるためには、それまでの人生観を180度ひっくり返さなければならないだろう。
 

 時間がかかることだけは、まず間違いなさそうである。でも、人生の中で本当に大切なことって、たぶん何でも時間がかかる。この点、いいものって、実は長い時間をかけて付き合ってゆけるものの言い換えなんじゃないかって気もするのである(善と永遠の不可分性)。