イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

一夫一婦制をめぐる考察、あるいは様相の哲学史

 
 必然性、あるいは偶然性への信仰がもたらす倫理的帰結について、夫婦愛を例にとって、もう少し考えてみることにします。
 

 必然性、すなわち運命のめぐり合わせを信ずるかぎり、人間はおそらく、厳粛なる一夫一婦制的価値観を離れることがありません。わたしにはただ一人だけ、共に人生の道を歩んでゆく伴侶が与えられている。よいことも悪いことも起ころうが、わたしはその人とすべてを共にするのだ。
 

 もちろん、このように信じている場合にもエマ的な危険(前回の記事参照)をはじめとする様々な危機は起こるでしょうが、原則として、わたしに離婚という可能性が思い浮かぶことはありません。運命によって結び合わされたパートナーをおいて、わたしには他の女性(男性)と結ばれることはありえないからです。
 

 一方、出会いの偶然性を信じている場合には、もはやそうはゆかなくなってくるように思われます。わたしはバーバラと出会うこともありえたが、そうでないこともありえた。現に、エマとはこうして出会ってしまったわけだし、この後にもナターシャやらソフィーやらエリザベスやら、一体誰が出てくるのかは誰にも予想ができないであろう。
 

 注意しておきたいのは、ここでは離婚の可能性が理論的に生じていることです。偶然性を信じるとは、偶然性がもたらす出会いを信じるということです。諸可能世界を往還する離接的肯定とか、同一性を突き破る変身の力というと聞こえはよさそうですが、パートナーを好きなように取っかえ引っかえできるのかというのはまた別の問題です。
 

 偶然性を信ずるかぎり、理想の婚姻制度とは、可能なかぎりの偶然性への開かれを保証する一夫多妻制(一妻多夫制)、あるいは多夫多婦制ということにならざるをえないのではないか。同時に何人もの女性と関係を持つなんて、そんなうらやましい、いえ、けしからぬ制度に同意を与えることは、哲学としていかがなものであろうか……。
 
 
 
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 ここでは話を少し(かなり?)誇張して論じてしまいましたが、要するに筆者が投げかけたい問題とは、必然性や偶然性をめぐる様相の問題は、実は倫理の問題にも直結しているのではないかということです。むろん、ここでの論はきわめて図式的で、まだ極めて粗い問題提起に過ぎませんが、引き続き追いかけてみるだけの価値はありそうな気がします。
 

 ヘラクレイトスや原子論者たちのような先例はあったにせよ、偶然性への信に基づく思考というのはもともと、哲学にとってはどちらかというとマイナーな流れに属するものでした。近代に入り、必然的存在者の影が薄まってゆくにつれて、出来事や存在の偶然性を信奉する哲学者たちの数もしだいに増してきます。
 

 ここでは詳細に論ずることは控えますが、偶然性は唯物論ととても高い親和性を持っています。エピクロスルクレティウスからマキャヴェッリを経てマルクスにまで至る唯物論の流れは、特に近代に入ってからとても大きな力を持ちましたが(それは理論の領域のみならず、社会主義国家の建設という壮大な実験も生んだ)、そのことにある時は近く、ある時は遠く呼応するようにして、現代の哲学にとっては、偶然性を肯定することがほとんど一般的なふるまいになっているようなところがあります。
 

 けれども、そのことは哲学的に言って十分な根拠に基づくことであったと言えるのだろうか。様相と倫理の関係については、とりあえず問題の足がかりを作ったということでここでは満足することにしつつ、そろそろ最初の問いに立ち戻って、わたしの誕生をめぐる偶然性の問題そのものに進んでみることにします。