イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「わたし」とは何か

 
 今日から予定通り「わたしとは何か」という問いに取り組むことにしますが、最初に次の点を確認しておくことにします。
 
 
 自己への「立ち返り」:
 「わたし自身」なるものに立ち戻ること自体が、精神にとってひとつの達成である。
 
 
 ほとんどの子どもは、「自分とは何か」という問いで悩み苦しんだりしません。トマス・アクィナスも指摘するように、知性あるいは魂が自己を認識するのは一種の「立ち返り」の働きによるのであり、これは、人間の精神活動の中でも高度な水準に属します。
 
 
 「俺の人生とは、一体何なのか。」うだつの上がらない状況の中である人々はそう問いますが、そこには否定すべくもない惨めさとともに、ある種の高貴さもあります。そこは、穀潰しであることとサムライであることとがもはや判別不可能になる混沌領域であり、探求者にできるのは、その答えもわからないままただひたすらに吠え、孤独に狂い続けることだけです。
 
 
 俺はただ、哲学するべきなのだ。だが俺は、果たして他者からの承認を本当に求めていないのか。そうではあるまい。おそらく人間には、自分以外の人間に向かって語りかけることをやめることなどできぬ。俺はただ、この荒野でいるともいないともわからぬ誰かに向かって叫び続けるのみ……。
 
 
 
「わたし」 トマス・アクィナス 知性 魂 純粋哲学 デカルト 実存
 
 
 
 そういうわけで、上の問いを追求してゆく際には、その探求が「俺の、俺による、俺のための哲学」という、痛々しくも狂おしい方向に向かうことは避けられなさそうですが、この問いには、もう一つ別の向かうべき方向があります。それは、純粋な意識としての「わたし」について考えるという方向です。
 
 
 こちらも哲学的といえば非常に哲学的な方向であり、かのデカルト以来、近代哲学はこちらの方面でも偉大な探求を行ってきました。この「わたし」とは「考えるわたし」であり、あらゆる経験的な所与から区別された超越論的意識であり、自らは表立って現れてくることのないままにすべての現れを成り立たせている密やかな時間性にほかなりません。
 
 
 今回の探求は、この二つの「わたし」が交錯し、実存と純粋哲学とが互いに互いを糾弾しあう薄明の地帯で行われることになりそうです。もはやこのような試みに対して関心を抱く人が他にいるのかは極めて心もとないですが、これからこの「わたしとは何か」という問いを密かに掘り下げてみることにします(「俺にはただ、哲学史との闘いをますます熾烈なものにしてゆくことしかできぬ……」)。