イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

絶対確実性と根源的事実性

 
 1.意識の与え、あるいは、思考するわたしの与え。(絶対確実性)
 2.個人の与え、あるいは、現実の中で生きる「この人間」の与え。(根源的事実性)
 
 
 この二つの与えについては、まずは次の点を確認しておくこととしたい。
 
 
 論点:
 絶対確実性の真理と根源的事実性の真理とは、異なるオーダーに属している。
 
 
 1の方はすでに論じたように、意識が与えられている限りは絶対に疑うことのできないものである。要するに、わたしが存在している時に「わたしは存在しない」って言っても、わたしが存在しなくなるわけじゃないもんね。いわば懐疑することによって、懐疑しているという事実のただ中で懐疑不可能性が告げられているというわけである。
 
 
 しかし、2の方の与の真理性については、少なくとも理論的には懐疑を差し挟みうるのではないだろうか。
 
 
 いやもちろん、現実的には「わたしが『この人間』であること」の事実性は疑いようもなさそうである。たとえば、誰がなんと言おうと僕はphilo198だし、「俺って実はphilo1985じゃないんじゃね?」っていくら疑おうとも、まあ僕は現実にはほぼ間違いなくphilo1985であろう。うむ。
 
 
 しかし、僕がphilo1985であるという事実の真理性については、一応は疑いうるし、さらには、その疑いが正しいというウルトラな可能性も厳密にゼロというわけではないのである。
 
 
 脳に電極繋がれてて幻を見てるといったような、SFとかファンタジーチックな想定、あるいは単なる壮大な夢オチとか、その辺は色々な可能性がありうるであろう。とにかく、考えるわたしの存在の絶対確実性とは違って、「わたしが『この人間』であること」の根源的事実性の方は「絶対に」確実なわけではないというのは、現実的にはそんなこと言ってもしょうもないとはいえ、哲学的には非常に重要な論点のように思われるのである。
 
 
 
絶対確実性 根源的事実性 philo1985 フィクション 近代哲学 カント デカルト
 
 
 ところで、フィクションというのは、おそらくはこの「この人間であること」なる事実をめぐる根の深い曖昧さによって可能になっているのであろう。
 
 
 フィクションを楽しむ時、人間は「わたしが『この人間』であること」という根源的事実から離れて空想の世界を楽しんでいる。いわば、フィクションにおいて人は「わたしが『この人間』ではなく、『あの人間』であること」を享楽すると言ってよいのかもしれない。今年の前半には反フィクション論なる立場について少しばかり考えてみたものであったが、フィクション一般が善かれ悪しかれ成り立ちうるためのそもそもの土台には「この人間」の与えをめぐる懐疑可能性が横たわっていることは、どうやら間違いがなさそうである。
 
 
 哲学史の観点からも考えてみよう。近代の哲学は、根源的事実性を絶対確実性に還元しようと努力しつづけてきた。認識の真理を、いわばコギトの絶対明証と同じ高みにまで引き上げようと努めつづけてきたわけである。
 
 
 しかし、そのような試みには、そもそも原理的な不可能性がはらまれていたのではなかろうかと僕には思われてならないのである。この辺り、デカルトにおける物体認識の問題から、カントにおける認識の客観性の問題、あるいは、そもそも現象学って何だったんだみたいな問題とかを絡めながらいずれしっかり考えておきたいところだが、とりあえずは「この人間」の与えについて引き続き掘り下げてゆくこととしたい。