イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

最新シリーズ

求道者の述懐

まずは、今回の探求で掘り下げてみたい命題を提示しておくことにします。 命題: わたしとは、他の誰でもない「この人間」である。 前回の探求に引き続き、筆者自身の例を取るならば、筆者は竹野内豊でもなければ、ジャスティン・ビーバーでもなく、philo198…

「わたし」とは何か

今日から予定通り「わたしとは何か」という問いに取り組むことにしますが、最初に次の点を確認しておくことにします。 自己への「立ち返り」: 「わたし自身」なるものに立ち戻ること自体が、精神にとってひとつの達成である。 ほとんどの子どもは、「自分と…

フィクションについての探求の終わりに

今回の探求の終わりに、真理に関する先人の一見解を参照しておくことにします。 アリストテレスによる真理の定義: あるものをあると言い、あらぬものをあらぬものと語るのが、真理である。 あるものをあらぬものと見なし、あらぬものをあると語るのがフィク…

眼差しの罪

問題提起: デカルト的自己観の受け入れから帰結するのはつまるところ、現実からのデタッチメントという事態に他ならないのではないだろうか。 わたしを純粋意識として捉えるということは、いわば自己を純粋なまなざしとして捉えることに他なりません。それ…

認識論的な悪の源泉

トマス的自己観: わたしとは人間であり、その限りで、この世においてはわたしの身体から分離する事ができない。 わたしを純粋意識として捉えるデカルト的自己観とは異なって(前回の記事参照)、この自己観によるならば、わたしが「この人間」であることは…

デカルト対トマス・アクィナス

問題の根幹には、わたしなるものをめぐる二つの考え方の相克が横たわっているように思われます。 わたしをめぐる二つの見解 ①デカルト的自己観: わたしとは、純粋意識である。 ②トマス的自己観: わたしとは人間であり、その限りで、この世においてはわたし…

快感原則から存在論へ

私たち自身の実存に関する一考察: 苦しみの存在は、人間が「この現実」のうちに生きているという根源的な条件を明るみに出す。 苦しみにおいて、私たちはしばしば「この現実」そのものから逃れようとしますが、「この現実」なるものは、忘れようとしても忘…

「この現実」

私たち自身の実存に関する一事実: 私たち人間はそれぞれ、たった一つしかない「この現実」を生きている。 たとえば、このブログを書いている筆者自身はいま、33歳の男性としてこの文章を書いています。 いま「男性」と書きましたが、筆者も他のすべての人間…

〈存在〉の問題圏へ

フィクションの「有益性」については他にもさまざまな視点から考察を加えることができそうですが、そろそろ、ハードな反フィクション論の側の検討に戻ることにします。 ハードな反フィクション論の中核: フィクションは、人間に「この現実」の重みを見失わ…

あの頃のマンガたち

フィクションの有益性②: フィクションは、鑑賞者の人格形成に非常に大きな役割を果たしうる。 筆者自身の例で言えば、筆者は十代の頃に読んださまざまなマンガから、極めて多くのことを学んだように思います。その中から数例を、ここで思いつくままに挙げて…

筆者自身の経験から

フィクションに関する問題提起: フィクションに気晴らしとしての価値があるとして、果たして、フィクションの価値はそれに尽きているのだろうか。 フィクションが場合によってはこの上ない気晴らしということは、ほとんど論証を要しません。しかし、作り手…

気晴らしあれこれ

前回に引き続き、反対論の検討から考察を始めてみることにしましょう。 ハードな反フィクション論に対する反対論: フィクションは、何らかの点で人間に対して有益な役割を果たしている。 まず最初に思いつくのは、フィクションは人間にとって、気晴らしとし…

後半戦の開始

そろそろソフトな反フィクション論を離れて、ハードな反フィクション論の方の検討に移ることにします。 ハードな反フィクション論……およそ、ありとあらゆるフィクションの存在を批判する。 この論に対してフィクションの「弁明」を行うとすれば、その後の論…

正義の次元ふたたび

本題に戻りつつ、そろそろソフトな反フィクション論の考察に暫定的な結論を下しておくことにします。 暫定的結論: フィクションの是非に関する判定を下すにあたっては、倫理的正しさという基準が存在する。 明示的にせよ暗黙のうちにせよ、あるフィクション…

教育と倫理の問い

少し話が逸れてしまいますが、この機会に、筆者にとって決定的に重要と思われる一論点を提起しておくことにします。 問題提起: 哲学者にとって教育という問題に向き合うことは、いわば必須課題であると言えるのではないか。 いやこれ、ホントそうなんではな…

フィクションと、罪や悪徳の関係

フィクションの是非に関する一論点: この世に流通するフィクションの多くが、罪や悪徳を取り扱っている。 たとえば、次の二つの映画のうち、どちらが大ヒット記録する見込みが高いと思われるでしょうか。 1. 登場人物たちが次々に死んでゆく、無差別サバイ…

ジョン・ドウとハリウッドの暗黒面

フィクションに関する「危険」: フィクションには、その作品を誤読あるいは誤解してしまうという危険が常に存在する。 たとえば『源氏物語』を読んで、男女の愛というものは、どんな場合であってもひとたび生まれてしまったらそれを追いかけるしかないのだ…

性愛は人を殺す

前回までに論じたことを踏まえつつ『源氏物語』に立ち戻ってみる時、私たちは、この作品を以前とは異なった視点から眺め直すように促されます。 『源氏物語』は、光源氏とその恋人たちのきらびやかな恋の物語を描いています。しかし、この作品がその一方で、…

芸術といわゆる「善悪の彼岸」

フィクションに関する一事実: およそいかなるフィクションにおいても、因果応報の原則が働いている。 夜神月が大量殺人によって「新世界の神」になることが決してできないのと同じように(前回の記事参照)、私たちは、因果応報の原則が機能しないような作…

夜神月は死なねばならない

ソフトな反フィクション論の主張: ある種のフィクションは、鑑賞者の悪徳の形成を促してしまうがゆえに批判されるべきである。 上のような主張に対しては、次のように反論してみることもできそうです。 ソフトな反フィクション論への反論: 通常のフィクシ…

『源氏物語』から考える

フィクションの存在に疑義を申し立てる二つの立場: 1. ハードな反フィクション論……およそ、ありとあらゆるフィクションを批判する。 2. ソフトな反フィクション論……数あるフィクションの中で、一部のフィクションのみを批判する。 2の立場の主張をさらに突…

「私は、合鍵の話をしているのですよ」「ええ、私もです」

フィクションは悪なのではないかと主張する立場には、大まかに言って次の二つのものがあると言えそうです。 フィクションの存在に疑義を申し立てる二つの立場: 1. ハードな反フィクション論……およそ、ありとあらゆるフィクションを批判する。 2. ソフトな反…

問題への予備的考察

最初に、次のような疑問について考えておくことにします。 哲学者への疑問: なんでわざわざ、フィクションが悪なのかとか考える必要あんの?別に面白かったらそれでいいんじゃね? この疑問に対しては、たとえば、次のように答えることができるかもしれませ…

フィクションは悪か

そういうわけで、哲学です。早速ではありますが、今回探求したい問題は、この記事の表題の通り、「フィクションは悪か」というものです。 おそらく、現代人に「あなたは、フィクションは悪だと思いますか?」と尋ねたとしても、ほとんどの人は戸惑うか、ある…

出版社から連絡は来た。しかし……。

突然だが、僕はこのブログの今後の方向性について、ここで一度シリアスに考えておかねばならぬ。まぁ、どっちにしろ、考えても事態がいい方向に向かうことは期待できなさそうではあるが、それでもやっておかねばなのである。 「……?何かあったんですか?」 …

社会についての考察のおわりに

私たちは前回までで、社会への同意という地点に辿り着きました。いささか急ではありますが、今回の探求は、ここでひと段落ということにしたいと思います。 というのも、この同意がどのようなものであるのかを考え始めると、私たちは「人間は社会の中で生きて…

社会契約と心のリミット

「汝は社会を望むか?」という問いに対して、人間はNOと答えることができません。なぜなら、それは生存することそのものを諦めてしまうことを意味するからです。 社会から個人を守るという考え方はとても重要なものですが、そのようにして守られる個人それ自…

われわれは共生する、望むと望まざるとに関わらず

ケアの関係(前回の記事参照)のただ中においても、人間は、次のような問いとはどこかで向き合い続けることになります。そして通常の場合、この問いから逃れることは誰にもできません。 ケアされる人間への問い: 汝は、社会の存在を望むか? ケアされる人間…

ケアをする人、される人

引きこもるという体験のうちでは、公共圏からの圧迫を和らげる役割を果たしていた親密圏(詳細については、以前の記事を参照)のプレゼンスが、極めて大きなものとなってきます。家族や恋人、友人同士の関係はこの時点から、ケアする人とケアされる人の関係…

アガンベンからトマス・アクィナスへ

引きこもる人間の問い: 純粋愛なるものは、存在するか? この問いがいったん危機的なしかたで問われてしまった後には、ひとはもう元の場所に戻ってゆくことはできません。なぜなら、この問いは本来、引きこもる彼あるいは彼女のものであるだけでなく、すべ…