イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

ペリアゴーゲーについて

  生き方が変わるような瞬間のことを、ギリシア人にならって、ペリアゴーゲーと呼んでみることにしましょう。ペリアゴーゲーこそが、哲学がめざす体験です。 

 
  それでは、魂が向け変えられるとき、一体ひとはどこに向かってゆくのでしょうか。それは、「善」そのもののほうに向かってです。どこかに、人間がめざしてゆく理想の極点のようなものが存在している。その極点がどのようなものであるのか、人間には漠然と予想することしかできないけれども、生きるということがその方向に少しずつ向かっていっているということだけはわかる。善なるものは、そこへと向かってゆく人間をだんだん変容させてゆきます。そこに向かえば向かうほど自由になり、近づけば近づくほど喜びに満ちあふれるようなそういった限界点が存在すると考えた哲学者たちが、歴史上に少なからずいました。僕も、このような考え方は基本的に正しいと思います。


  たしかに、善そのものであるとか、人間の理想の極点であるとか、そういった訳のわからないものは存在しないのではないかという人は、哲学者のなかでも数多くいることと思います。けれども、その一方で人間は、人間としての完成というヴィジョンから逃れられない運命にあるというのも確かです。ギリシアではなんといってもプラトンがそうですし、孔子の「君子」、イブン・アラービーの「完全人間」など、地域と時代を問わず、善そのものを体現する人間というイメージは人類につきまといつづけている。完成された賢者、最高の叡智を体現する人間というこのイメージは、たとえばジェダイ・マスターというかたちをとって、『スター・ウォーズ』のような映画のなかにも立ち現れてくる。哲学から大衆映画にいたるまで、「善そのもの」という不確かにもみえるものが、人間を誘惑しつづけているのです。


  一方で、完全な人間になるというのは、誰にとっても無理なことだと思います。カントは、われわれが道徳的に完成するためには無限の時間を必要とすると考えていたようですが、そうなってくると、人間は死ぬまでずっと不完全なままにとどまりつづけるということになります。けれどもこれは、逆をいえば、毎日が達成することのできないゴールをめざして少しずつ少しずつ歩んでゆく道のりなのだということでもある。昨日よりは今日、今日よりは明日がそのゴールにほんの少しでも近づいているというのは、人生を静かな喜びに満たされたものにしてくれると思います。


  ペリアゴーゲーは、この見えないゴールのほうを魂が向いたことが自分でもわかる瞬間です。「これだ、こういうことがしたい!」「理由は全然わからないけれど、自由にむかって進んでいることだけはわかる!」哲学は、考えるなかでこのように叫ばずにはいられないような体験をめざして進んでゆくものだと、僕は思います。このような考え方はたしかに、過度に楽観的であるようにも思えます。現実の人生は、それほど喜びに満ちたものでもないし、暗くもなり、悪意にさらされるようなこともある。けれども、おいしいものを食べた、でもいいし、散歩していたらなんだかやたらに気分がよくなってきた、でもいい、理由もわからないけれども、自分が喜びに満ちていて、なんだってやれるような気がすると思えるような瞬間がやってくることがあるというのも確かです。そういう瞬間にはおそらく、あのペリアゴーゲーが起こっている。哲学は、こういう奇蹟のような瞬間を、考えるなかで起こすことをめざします。哲学は根底からオプティミスティックなものだと、僕は思う。なんだか事情はわからないけれど、よい方向に向かっていることだけはわかる瞬間というものが存在するのだと、ウラジーミル・ナボコフという作家があるところで書いていました。まさしく、ペリアゴーゲーの神秘です。