イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

永遠についてもう少し

   永遠について、もう少し語ってみることにしましょう。過ぎ去るもののただなかに永遠がやどっている。けっして変わることのないもの、いつまでもとどまりつづけるものが、人間のかたわらにいつでも存在している。そして、哲学はこのイデア的なもののほうにむかってどこまでも進んでゆく。けれども、永遠なものの存在を示してくれるのは、じつは哲学だけではありません。
 
 
  たとえば、絵画もまた、永遠なるものが日々の営みをかたちづくっていることを示してくれるといえないでしょうか。部屋のなかで手紙を読んでいる女性にさしこむ光や、水と植物の印象がつくりだすなんともいえない雰囲気をともなう色のたわむれは、見ている人にほかのすべてのことを忘れさせて、ただ見ているものそのもののもつイデア性のほうに目を向けさせます。美術館で絵を見つづけたあとは、外に出たあとに、世界がまるで違ったものにみえる。「今までわたしは何も見ていなかった。すべてのものは、なぜこんなにも・・・」ジル・ドゥルーズという哲学者は、感覚のなかにイデア的なものが宿っているということに、ずっとこだわりつづけた人でした。絵を見る人には、彼が生涯をとおして言いたかったことが直観でわかってしまう。たとえば、見るという行為そのもののなかに永遠がある。わたしたちはふだん永遠しか見ていないけれども、実はそのことを知らないだけなのだ。絵画は、そのことを私たちに気づかせてくれます。
 
 
  そして、コメディー映画!登場人物たちが自分の欲望にまかせてあくせくしているだけなのに、それを見ているだけで、なぜこんなにも幸せになるのだろう。ふだんの私たちは、人間が自分の欲望にぎらついているところを見せつけられると、とてもうんざりさせられてしまう。けれども、コメディー映画のなかの人びとは、やることなすことが愛すべきものに思えます。あらゆるシーンには、ある種の魔法がかかっている。意地悪な人も、憂鬱な人も、怒っている人も、すべての人が一緒になって、ひとつのオーケストラを作りあげています。コメディー映画が伝えたいことは、とても単純です。本当は、悪いだけの人、いやなだけの人なんてそうそういないのだ。たしかに、私たちはみんな、少し愚かで、少し自分勝手で、少し冷たい。けれども、そういう私たちが作りあげているこの世界は、見るべき視点から適切なしかたで見るならば、とても素晴らしいものだ。人間のあらゆる営みのうちには、なにか必ず愛すべきものがある。人びとのエゴイズムの衝突のただなかにイデアの光がきらめく。自分勝手な恋のなかに、悪循環におちいってゆく誤解のなかに宿る永遠!
 
 
  人間の日々の生活のなかに宿る永遠なるものを認識することにかけては、ヨーロッパの哲学者は陽気なアメリカ人たちにとてもかないません。アメリカ人たちは、あの根拠のない底抜けの明るさについて、どこまでも深く知りぬいている。ファレル・ウィリアムズというアーティストの『Happy』という曲は近年とてもはやったので、ご存知の方も多いと思います。いまYouTubeで検索してみたら、再生回数はなんと6億回を突破していました。あの曲のプロモーション・ビデオには、バルーフ・デ・スピノザという哲学者が第三種の認識という言葉で伝えようとしたもののエッセンスが、誰にでも見ればわかるかたちで体現されているように僕には思えます。スピノザはすべてのものや出来事がそのままで永遠性をもっているということを、数学のように証明しようと企てました。絵画や映画、音楽もすばらしいけれども、哲学もまた永遠にたいして、哲学にしかできないやり方で迫ろうとする。『Happy』を見たあとに彼の『エチカ』の第五部の証明を読んだ人は、ビデオで見たものと同じ事柄がまったく違ったふうに語られていることに、きっと驚くことでしょう。