イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

ラブレターを弁護する

 ポップ・ソングはそれまで表現されることのなかった情動を曲のなかに凝縮することによって、リスナーにそれを伝達する。内面の気持ちがポップ・ソングをとおして、まるで魔法のように伝わってゆく。哲学が行うべきことも、実はそれと同じことなのではないでしょうか。
 
 
  哲学がめざすべきペリアゴーゲー(魂の向けかえ)の体験には、かならずある種のテンションの高まりがともなっている。新しい思想に触れるときには、「おお、これは見たことのない考え方だ」という感慨とともに、自分が今までにないやり方で考えはじめていることを示す喜びの情動も一緒に伝わってくる。
 
 
  生まれ変わることの喜びをぬきにして、哲学という活動はありえません。考えることとは冥界にいって戻ってくることなのだというイデーが、時代を超えてさまざまな哲学者たちによって共有されています。この点からいうならば、考えることの喜びとは、あの世にいってくることの喜びなのだと言ってもいい。
 
 
  「自分が感じている世界を、相手にそのまま伝えてみたい。わたしが感じているこの気持ちを、奇蹟のようなやり方で伝達することはできないだろうか。たんなる情報や知識ではなく、自分の内側から発している精神の波動のようなものを、そのままの形で誰かに伝達できるなら・・・」ニーチェは、哲学者のなかでもこのことが抜群にうまかった。ニーチェの書いたものを読む人は、かならず燃えさかる炎のようなあのヴァイブレーションに襲われる。この炎は、ネガティブなものの考え方を一瞬で焼きつくす炎です。ニーチェを好きになるにせよ嫌いになるにせよ、彼がわたしたちにこのヴァイブレーションを伝えることに失敗することは決してない。
 
 
  いつか、まるで魔法のような文章が書けるようになりたいと願わない作家はいないと思います。それを読むことによって、書いたときに自分のもとを訪れたイデーの喜びがそのまま伝わるようなものを書くことができたら、不可能に見えていたことがなぜか実現して、どこまでも透明なコミュニケーションが成立するなら、あなたとわたしとのあいだに、ついにもう何のへだたりもなくなるなら。作家たちはきっと、こういうちょっと押しつけがましくもある望みを抱いて、毎日机にむかっているのでしょう。
 
 
  哲学者も、自分のもとで生まれつつある新しい情動を、言葉によって捕まえようとする。伝えたいという気持ちの狂おしさ!だからこそニーチェは、あのラブレターのようなアフォリズムを生涯をとおして書きつづけました。けれども、悲しいことに、哲学者たちのラブレターはとても読みにくい。何かを伝えようとして必死になるあまり、度を超して性急で、相手の都合のことをまったく考えていない。僕も哲学をやっているから、その気持ちがとてもよくわかる。哲学の本を読むときには、どうか読む相手のことを少しだけ哀れんであげてみてください。気は難しいし、付き合いにくいけれども、根っこのところではとてもいい人たちです。