イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ニーチェのように正直に

  フリードリヒ・ニーチェは、その人生をとおして、ずっと私たちにラブレターを書きつづけました。心のなかからこんこんと生まれ出てくる情動を、書くことによってなんとかして相手に伝えたい。ニーチェが好んだたとえは、高山の凍てつくような空気というものです。人間がいる場所からはるかに遠くはなれたところでは、ふつうの人にはきわめて恐ろしく思えるような強度をはらんだイデーが猛威をふるっているのだと、彼は言います。この燃えさかる風のようなイデーにたえず突きうごかされながら、読者たちによって読まれることもないままに、彼はきわめて多くの書物を書きあげたのでした。
 
 
  僕は、哲学を自分から学んでみたいと思うタイプの人は、いつかどこかの時点でこういう炎のようなイデーに襲われたことのある人だと思う。自分は今、なにかとてつもないことを考えているのだけれども、何を考えているのかがわからない。世界の全体が一瞬で凍りついてしまいかねないほどの思想がいまにも心のなかで生まれ出ようとしているのに、それにふさわしい言葉が見つからないまま、まるで苦しみのなかでうめきつづけるようにして、ああでもないこうでもないと考えつづける。そういう体験が、この世のなかには確かにある。
 
 
  これは、イデーの熱病とでも呼べるものかもしれません。いちどこの病にかかってしまった人は、遅かれ早かれ、哲学のもとにいずれ必ずたどりつくことになります。多くの人は、そこで自分が取りつかれてものの正体を見いだすことができたように思って、ようやく安心することができる。けれども、いくぶんかの人はそれでも満足することができずに、この熱病の核心にむかって、ますます奥へ奥へと突きすすんでゆく。
 
 
  今日の話については、これは自分とは縁とおい話だと思われた方も多いかもしれません。考えることの熱に取りつかれている人なんて周りになかなかいるものではないし、そういう人が魅力的に見えるともかぎらない。でも、哲学という活動のうちには、すべてを忘れてそれを追いかけたくなるほどの魔力があるというのも確かです。この魔力を一部の人のものにとどめておくのは、とてももったいない。哲学者たちは、「お節介に思われてしまうかもしれないけれども、哲学はすべての人にとって、こんなにもすばらしいものなのだ!」と、歴史を超えて私たちに語りかけつづけています。これこそまさしく、お節介以外の何ものでもないような気もしますが……
 
 
  話をもとに戻しましょう。僕は、哲学者でも文学者でも、まるで恋人にむかって語りかけるように、必死にこちらに何かを伝えようとしてくれる人たちが好きです。僕はニーチェからとても多くのことを学んだけれど、今では、彼の思想のある部分は、ほとんど決定的に間違っていたのではないかと考えています。でも、たとえそうだとしても、ニーチェのことを嫌いになるなんてとうていできそうにありません。それは、これほどまでに自分が考えたことを正直に語りかけてくれる人は他にいないからです。おそらく、哲学の最大の魅力は、自分の魂にたいするこの上ない正直さをそこで見いだすことができるところにあるのではないでしょうか。
 
 
  とても押しつけがましいけれども、これ以上ないくらいに大切なことを伝えてくれる人たち。親しい知り合いでもなんでもないのにこちらの生き方についてとやかく文句をつけてきて、無視しようとすると、「私はあなたたち人類を愛しているんだ!」と必死に詰めよってくる人たち。そんな哲学者たちのことをどうか嫌いにならずに、できればほんの少しだけ彼らの言うことを聞いてあげてみてください。彼らは、人生をかけて自分が追いもとめつづけたものを、少しも惜しむことなく差しだしてくれますから。ニーチェは、「どうやら、私は人類にとてつもない贈り物をしてしまったようだ!」と、あるところで書いています。こういうことさえ書かなければ、もっと付き合いやすい人なのですが!
 
 
  (今日はいつもよりも、少し長くなってしまいました。僕のほうも、伝えたいことがついついあふれ出てしまったようです。明日からはもっと短く読みやすくまとめるように努めますので、どうかご容赦ください。)