イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

仏さまが望んでいること

 

  「俺は、永遠に生まれ変わりを繰りかえす、この輪廻の世界をついに克服した。長かった。あまりにも長く辛い闘いだった。とてつもなくブルーでマンデーな、仏滅の日々だった。だが、俺はやりぬいた。今はなぜか、すべてのものがやたらとクリアーに見える。全部のことがこんなにもイージーだったってことは今になればわかるけど、当時はそれこそ地獄に思えたもんだ。だが、思い返してみれば、宇宙はつねに完成してたわけだし、俺の心は最初から完全に自由だったんだ。

 
 
   蛇が皮を脱ぎすてるように、俺はこの世を捨てきった。だが、いまの俺はなぜか、自分でも驚くくらいの愛にあふれてる。かぎりなく透明な認識にもとづいた、知的でクールな愛だ。どうやら俺は、この愛を他の人間たちに伝える役割を背負っちまったらしい。俺は俺で、ひとりで永遠に平穏に浸ってても全然いいんだが、どうも天が俺にそれを望んでないらしい。俺が教えの車輪を回すのを見たくてたまらない奴らが、俺を待っちまってる。俺はこれから奴らに、いまの俺に見えてるものを伝えようと思う。天上天下唯我独尊の、俺の世界を。ブッダの世界をだ。」
 
 
  菩提樹のもとで悟りをえたお釈迦さまが上のように思ったかどうかはわかりませんが、仏教の、とくに大乗の教えによれば、この世との長く苦しい闘いをへてついに悟りをえた仏さまは、すべての生き物たちへのかぎりない慈愛に満たされるようになり、彼らを救うために立ちあがらずにはいないといいます。そして、その仏さまの教えを聞いて救われたものが、今度はまた自分自身で仏さまとなって、また別の生き物たちに教えを宣べ伝えてゆく。仏教の教えはこうして今にいたるまで受けつがれ、私たちのもとにまで伝えられている。
 
 
  こうした仏さまたちが伝える真理であるダルマは、誰のものでもありません。ダルマには著作権もなければ、オリジナリティーもまったくない。真理を知りたい、近づきたいと強く願うなら、誰でもそこに自由にアクセスすることができる。ところが、輪廻のなかをさまよう私たちは、自分たち自身の欲望のせいで目がひどく曇らされているので、ダルマが永遠の時にわたって存在しているという事実に、いつまでたっても気づくことがありません。
 
 
  仏教の教えによるならば、生き物たちはこのように、自分自身が何を求めているのかを知ることのないまま、あてもなく漂流しつづけている。仏さまは、そんな彼らにたいしてやさしく丁寧に教えを説くことによって、ダルマの存在に気づかせようとします。そして、すでに少しだけ触れましたが、教えることに関しては、仏さまたちはみな、かぎりなく有能で信頼できるプロフェッショナルである。彼らは、生き物の心なるものについて、どこまでも深く知りぬいています。仏さまたちは、何をどう言えばそのときどきの相手に伝わるのかということを、たとえどんな人と一緒にいるときでも、つねに完璧に把握している。いま、この人はダルマの方を向いているのか、向いていないのか。どうすればこの人は、よりよい方向にむかって進んでゆくことができるのか。仏さまはこうしたことをつねに念頭におきながら、説法の相手にむかって語りかけるのだそうです。仏さまの望みとは、生き物たちすべてが自分と同じ悟りに導かれることなのです。
 
 
  それでは、悟りとはいったい何なのでしょうか。お釈迦さまがたどりついた到達点、そこにさえたどりついてしまえば、もはや苦しみにわずらわされることもなくなり、比べるもののない自由を手に入れることのできるはずの地点である、あの悟りとは。この境地について語ることができるのは、言うまでもなく自分で本当に悟った人だけであるとは思いますが、昨日から思いがけず仏教の世界のなかに入りこんでしまったので、明日はこの問いについて、少しだけ考えてみたいと思います。どうか、本物の仏さまがお読みにならないことを願うばかりです!
 
 
 
仏教 ブッダ 菩提樹
 
 
 
(Photo from Tumblr)