イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

向こう岸にたどりついた人

 
  昨日は、「悟りとは何か、次の記事で考えてみる」などと流れにまかせて書いてしまいましたが、あまりにも無謀なことを自分で勝手に請けおってしまったということに、夜中になってから気がつきました。いうまでもなく、僕自身は悟りを体験したことがありません。正直にいうと、昨夜はキーボードを前にして一時間ほど、いったい何を書いたらいいのだろうかと途方にくれていましたが、文字どおり何も出てきませんでした。ない袖は振れないとは、よく言ったものです。
 
 
  それにしても、お釈迦さまが体験したという悟りのことを考えるときにはいつも、当時のインド人たちが味わったであろう、天地がひっくり返るような驚きのことを思わざるをえません。おそらく、現代を生きる私たちにとってお釈迦さまがすこし自分からは縁とおい存在にも思えるのは、彼らと私たちとのあいだにある、生死をめぐる考えかたの違いが大きく関わっているのではないでしょうか。
 
 
  インド人たちは、輪廻転生の存在を信じています。私たちは死んだとしても、それで終わりではない。死んだあとにはまた別の生命としてよみがえり、ふたたび生きたのちに、またしても死んでよみがえる。この宇宙は、永遠に回りつづける車輪そのものだ。いまの人間は、いつか確実に滅びる。地球はいつかは太陽に飲みこまれ、私たちが存在していたことの痕跡さえもなくなるからだ。けれども、たとえどれくらい後になるかわからないとしても、いつかはまたどこかで惑星が必ず生まれ、ふたたび生命が芽吹く。そこには無数の愛があり、苦しみがあるだろう。無数のものがまた書かれ、読まれるだろう。まことに、すべてのものはいつまでも回りつづけるのだ。
 
 
  お釈迦さまの悟りの体験は、このようなインド人たちの世界観を、根底からくつがえすものでした。人間はたしかに輪廻転生を繰りかえすけれども、この無限につづくプロセスを断ちきってしまう、ある驚くべき道が存在している。かぎりなく長く苦しい闘いをへてこの到達点にまでいたった人間は、ついに苦しみそのものの存在から永久に解き放たれることができる。彼はもはや、愛することも苦しむこともない。もう二度と、感情によって縛られることもない。
 
 
  彼にはもう、眼もなければ耳もなく、鼻もなければ舌もないし、身体もない。心もない。意識もなければ死もないし、死がなくなるということもない。彼はもう、向こう側に行ったのだ。私たちがもうずっと前からさまよいつづけている、この世界ではないところへ。想像することさえできないところ、私たちがもはや私たちであることをやめるところへ。
 
 
   何がなんだか、もう全然意味がわからないと思われた方もいるかもしれません。じつのところ、書いている僕自身にもよくわかりません。けれども、ゴータマ・シッダールタという人のうちにはきっと、「自分にはまったく理解できないけれども、そのような体験はきっと存在するにちがいない」と、出会った人に確信させずにはいない何かがあったのだと思います。この人はすでに、生きることも死ぬことも超えでてしまった。他の人たちにそのように信じさせることができる人が歴史のなかに実際に存在したというだけでも、何かとてつもないことだと言えるのではないでしょうか。
 
 
  今日で、仏教のお話にはいったん区切りをつけることにします。もっと仏さまたちのことについて話したいのですが、このまま続けていると、気がついたら哲学について考えるのではなく仏教を伝道していたということになってしまいかねません!仏さまたちのもとには、いずれまた折を見て立ち返りたいと思います。もし仏教について興味をお持ちになった方がいらっしゃいましたら、ぜひお経を始めとする仏教関係の本をひもといてみてください。そこにはきっと、かぎりなく奥深い心の知恵がたっぷり詰まっているはずです。
 
 
 
仏教 悟り 彼岸
 
 
 
(Photo from Tumblr)