イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

ブログを半月書いてみて、考えたこと

  今日から6月です。早いもので、このブログを始めてからもう半月になりますが、思っていたよりもずっと多くの方に読んでいただけているようで、本当にありがたく感じています。僕はこれまで、インターネット上での言葉のやりとりの世界に触れたことはほとんどありませんでしたが、他のみなさんの書いたものを眺めていると、それぞれの人がその人自身の問題を追いもとめていらっしゃって、当たり前のことだけれど、自分の知らない数多くの人たちが、さまざまなことを考えながら今日もどこかで生活しているのだなと感じさせられています。
 
 
  表面上で起こっているコミュニケーションよりもずっと多くのコミュニケーションが、きっとここでは起こっているのでしょう。直接に言葉をかわすことがなくても、知らない誰かの書いたものを読んで、それについてじっくり考えて、また自分が書くことへと向かってゆくという繰りかえしの中には、意識するにせよしないにせよ、自分以外の人たちの存在がとても深く関わってきている。
 
 
  それこそ、ライプニッツモナドのように、一人ひとりがどこまでも内側に閉じているようで、実は外側に向かって開かれてもいる。他者との関わりかたという点において、ツイートをつぶやいたり、ブログを書いたりする生活のうちには、何かとても独特なものがあります。
 
 
  おそらく、僕たちの時代は、書くことと読むこと、そして考えることをめぐって、とてもラディカルな組みかえのプロセスのまっただ中にある。これほどのスケールで他の人たちに向かって開かれながら書いたり読んだりすることのできる時代を、人類はまだ経験したことがありません。このことが哲学という活動そのものに及ぼす影響は、計り知れないくらいに大きいのではないかと思います。
 
 
  僕は大学に入って以来、いつかは書くということを自分の仕事にしたいと考えながら、日々を過ごしてきました。けれども、最近になってからますます強く感じさせられているのは、今のこの国の状況では、思想や言論の世界のなかでメッセージを発信してゆくということが、インターネットの外の世界ではとても難しくなってきているのではないかということです。
 
 
  まわりの友人たちともよく話すことですが、思想や文学はいま、とても大きな危機のうちにあると思います。たとえば、今は言論の世界のなかで、実感をこめて「私たち」という言葉を使うことがとても難しい。「私たち」といっても、それは誰をさすのだろうか。本当に、この言葉は誰かのもとに届くのか。ひょっとすると「私たち」なんて、もう存在しなくなってしまったのではないだろうか。
 
 
  もう一つ例を挙げておくなら、今の時代には、誰もが読むべき本というものがほとんどない。それは、一面においては、みなが自由に自分の問題を追いもとめているということでもありますが、その一方で、思想や文学の営みそのものを危険にさらしかねないことでもあるように思います。
 
 
  けれども、半月ほど前に、このインターネットの言葉の世界にはじめて触れてみて、さまざまな方の活動によって、とても力づけられました。「私はこの問題についてはこう思う」と他の人たちに向かって語りかけている人もいれば、他の場所では言えない叫びを、ただ一人で切々と書きつけている人もいる。哲学や思想が今よりももっとずっと活躍できるような世界は、ひょっとすると、こういうところからも生まれてくることができるのではないか。古代ギリシア人たちが今のこの状況を見たらきっと、なんてこった、これはとてつもないアゴラができてしまったものだと驚くことでしょう。哲学はこの新しい言論空間のなかで、いったいどのようなものに変身をとげることができるのだろうか。私たちはいま、時代をあげてこの問いに答えようとしているところだと思います。この国の哲学の歴史に私たちブロガーのことが書かれる時代も、ひょっとしたら遠くはないかもしれません!
 
 
  ブログやツイッターの世界を知ったことで、僕はとても大きなエネルギーをもらいました。これからも引きつづき哲学について考えたことを書いてゆきたいと思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。