イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

キャラクターがやってくる

  哲学者は、自分自身のキャラクターに襲われるという体験をしたときにはじめて、哲学者としての活動を始めることができる。ジル・ドゥルーズは、最晩年になってから書いた『哲学とは何か』という本のなかで、「概念的人物」という言葉を用いてこのことを説明しようとしました。ここには、哲学者をまさにその人たらしめる、ある秘密の出来事があります。
 
 
  キャラクターは、準備が整ったときになると哲学者のもとを訪れて、彼に向かってこう語りかけます。「さあ、そろそろ本格的な仕事に取りかかろうじゃないか。私がやってくる前の君は、まだ本当の君自身になっていなかった。今からは私が、君のかわりに君のなかで語ろう。なに、君の仕事は、私が自由に語れるように準備を整えてくれるだけでいいのだ。あとは私がやるからな。さあ、君と私とで、これから世界をひっくり返そうじゃないか!」キャラクターが語りかけてくるこの言葉を信じるかどうかは、聞いているその人次第です。
 
 
  たとえば、ツァラトゥストラというキャラクターに襲われたニーチェは、その典型的な例であるといえるでしょう。ニーチェは、ツァラトゥストラが自分のもとにやってきたとき、彼のことを全面的に信頼することにしました。どうもこの人間は、他人という感じがしないな。彼はひょっとすると、わたし以上にわたし自身の思想のことをわかっているのかもしれないぞ。ここはひとつ、彼を舞台に上がらせてみることにしようじゃないか。こうして、きわめて短い期間のうちに、『ツァラトゥストラはこう言った』が書きあげられることになりました。
 
 
  自分ではなく、自分の中にいるキャラクターが考える。だからこそ、哲学者はまずもって役者の才能を持っていなければならないのだ。ジル・ドゥルーズは、このことはなにもニーチェのような一部の人間だけに限られるものではないのだと言っています。ここでの言葉づかいで言うならば、キャラクターは、あらゆる哲学的思考のうちに宿っている。デカルトはゼロから考える人のふりをしているし、キケローは友情について語るのに、老いたラエリウスの口を借りている。そして、プラトンはといえば、この人こそが哲学の歴史のなかでも最大の役者にして舞台監督であるということは誰もが知るところです。ソクラテスはこの人の作りあげた対話編のなかでこそ、今も私たちに語りかけつづけているのですから。
 
 
  自分を譲りわたしてキャラクターが語っているのを眺めているという体験は、自分自身を犠牲にしてしまうもののようにも見えますが、この体験以上に、人間がみずからを自由であると感じる機会は他にないのだともいいます。このことをもう少し突きつめてみるならば、人間が最も深い真実を語ることができるのは、演技をしている時なのだということにもなる。この観点からみると、哲学者とは、自分のもとにやってきたキャラクターと内密の契約をかわした人のことだということができるでしょう。
 
 
  これからは私が考えるかわりに、君にすべてを任せよう。けれども、そのキャラクターが当のその哲学者の人生をどういう方向に向かわせてゆくのかは、前もっては決してわかりません。これはまさしく、悪魔との契約とまったく同じ構造をしているといえます。そのキャラクターのことを信頼していいのかどうか、はっきりとした決断をくだす根拠も見つからないままに、自分で判断を下さなくてはなりません。キャラクターが悪魔ではないことを信じて、ただひたすらに、先の見えない思索の道を突っ走るのみです!ギャンブラー気質の方にはもうたまらない快感なのかもしれませんが、僕からすると、なんだかちょっと怖いです。「しかしだね、君。人間として何か成し遂げたいならばだな、ギャンブルくらいやれなくてどうする!」ああ、やっぱりそうなのでしょうか。そう言われても勇気は全然湧いてきませんが、とりあえず、明日はギャンブルについて考えてみることにします。