イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

ギャンブルをするからには、せめて

  僕は今まで、自分がギャンブルに身を任せるなどということは、これから先も決して起こらないだろうと考えてきました。でも、長いスパンで考えてみると、就職先もまったく考えないままに30歳までふらふらと過ごしてきたというのは、ギャンブル以外の何物でもなかったのかもしれません。振り返ってみれば、明らかにまずかった。もう遅すぎるかもしれませんが、今日はギャンブルなるものについて考えてみることにします。なにか希望の持てる結論が出てくるといいのですが。


  ひとはギャンブルにおいて、先が見えないもののうちに元手を投じます。元手はお金であることもあり、自分の人生であることもありますが、とにかく、自分のかけがえのないものの所有権をいったんは放棄して、運命の手に委ねる。


  そして、自分が投げうった元手は、いわば未決定の空間のなかで静止する。ああ、いま自分は、こんなに大切なものを手放してしまったのだ。これは、うまくいけば何倍にもなって戻ってくることもあるけれども、一瞬のうちにすべて燃えつきて灰になってしまうかもしれない。人生をギャンブルとして生きるというのは、今まで積みあげてきたもののすべてが一気に崩れさる可能性をも肯定することだ。「全部なくなるなら、それはそれでいいじゃないか!」


  僕はすでに、この時点でついてゆけそうにないですが、なんと、ギャンブルに取りつかれてしまった人だと、まさしくこの瞬間にこそ言いようのないエクスタシーを感じるそうです。破滅することのただなかにさえも、いくぶんかの喜びがある。ドストエフスキーの『賭博者』という小説や、福本伸行さんの『カイジ』という漫画は、このあたりの事情について、とても克明に描いています。人生を転がり落ちてゆくプロセスのなかに宿る、まるで天国そのもののような恍惚感。本当は表に現れてきてはいけないはずのタナトスが全面的に荒れ狂う、至福のひとときです。


  なるほど。しかし、この感情はなんというか、あまりにもマニアックにすぎるのではなかろうか。病みに病んでいるギャンブルマスターの方たちにとっては、これこそがギャンブルの真髄だと言えるのかもしれませんが、ここはやはり、素人ならではの度外れな楽観主義の立場に立ってみたい。すなわち、一攫千金です!


  素朴すぎるほどに素朴な考えかもしれませんが、やはり、原点を忘れてはいけないはずです。私たちは、なぜギャンブルをするのか。言うまでもなく、儲けるためです。気分を盛り上げるために、ここで想像させてください。私はたしかに、すべてを賭けた。ひょっとしたら、破産するのではないか。すべてを失うのではないか。こんなに哲学を勉強したのに、このままじゃ無職だ。そうやって、私たちは不安のなかですべてを賭けます。待った。結果を待った。待つのは正直に言って、とても長く感じられた。けれども、いざ結果を見てみると、すべてはなくなりはしなかった。いまやそれは、何百倍、何千倍にもなって返ってきたのだ!


  ギャンブルをするからにはせめて、最後の希望を守りつづけよう。というよりも、この希望まで消えてなくなってしまったら、もう何ひとつ残りません!僕も、これからしばらくは頑張ってみます。もしみなさんの中に、将来のことがまだ定まっていない方がいらっしゃいましたら、どうかその方のもとにもすばらしい幸運がやってきますように!