イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

ローマ皇帝のような気概で

  昨日から、一攫千金について、自信をもって書けなかったことを悔やんでいます。その理由は明らかで、僕がこれまでの人生のなかで、一攫千金の体験をしたことがないからです。気のきいたことを何か書こうとして、最後の段落のあたりで一時間ばかりうなっていましたが、まるで、うっかり火を消すのを忘れてしまったお鍋のよう!要するに、完全に煮詰まってしまいました。
 
 
  ない袖は振れない。ふたたび、この言葉が身にしみて感じられてきます。それにしても、何かうまいことを書こうとして全然出てこないというのは、自分のキャパシティーの限界を感じさせられて、とてもやりきれない体験です。「いや、僕はもっとできるはずなんだ。さあ、書け、書くんだ!」そうは言っても、ない袖は振れません。「ダメだよ無理だよ、もうできないよ。頑張ったけど、何も出てこないよ。ごめん、もう放っておいてくれないか……」そういう体験は、もうこれ限りにしたい!とにかく、自分で体験してもいないことを書こうとするのをやめることです。
 
 
  体験していないことは書けない。逆に、体験したことについては、自分が望むだけリアルに書くことができる。これこそが書くことの鉄則であるということは、多くの作家が証言しているところです。しかし、もう少し深く考えてみると、哲学者にとっては、この法則がとても重大な帰結をはらんでいるという事実が見えてきます。
 
 
  哲学は、生きるということのよさについて、トータルに考えなければならない。そうであるならば、哲学者はあらゆる体験をくぐり抜けなければならないということになりはしないだろうか。そう考えはじめてみると、つぎつぎに歴史上の実例が思い浮かんできます。
 
 
  たとえば、ストア派の哲学者である、マルクス・アウレリウス・アントニヌスを取りあげてみましょう。彼の『自省録』が歴史を超えて人類の遺産として残った理由はいろいろあるとは思いますが、この人がローマ皇帝であったという事実がとても大きく作用していることは疑いないでしょう。確かに、彼の簡素な物言いのなかには、つねにあの高貴なエートスが張りつめていて、それが読者を一度捉えてしまうともう決して離さないというのは正しい。けれども、彼の言葉がきわめて強い説得力をもっているのは、言うまでもなく彼自身がローマ皇帝として、その生涯をとおして蛮族たちと闘いつづけたからでもあります。
 
 
幸福は、その人が真の仕事をするところにこそある。
 
 
  この言葉も、戦争と激務をくぐり抜けたこの人から言われると、ずっしりとした重みとともに読者に伝わってきます。この人はこの言葉を書きつけるまでに、いったいどれだけの試練を踏み越えてきたのだろうか。世俗から離れて生きよと説くエピクロス派の哲学者であっても、「ローマ皇帝の務めを果たすことなど、人間としての真の仕事ではない」と言い切るのには、おそらく並大抵ではない勇気がいることでしょう。
 
 
  ひとを哲学者にするのは考えることの鍛錬に他ならないけれども、その鍛錬じたいは、その人自身の実体験において行われる。「人生を賭けた挑戦のなかでこそ、イデーは生きるのだ。もし君に本当に伝えたいことがあるのなら、ローマ皇帝を務めるくらいの気概で、君の人生を生きてみたまえ。」この記事を書きはじめたときに比べると、気分がずっとしゃっきりとしてきました。これからは、マルクス・アウレリウスからそう言われたと思って生きるように努めたいと思います。