イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ねこあつめの秘密

 今日は休日なので、心のなごむ話題でゆきましょう。最近、巷では、『ねこあつめ』なるアプリがとても流行しています。これは、手元のスマートフォンの中に広がる庭のなかに、次から次へとかわいい猫たちがやってくるというコンセプトのゲームです。一部の猫好きの方たちのあいだで徐々に人気を集めはじめましたが、今ではスマートフォンを持っているあらゆる年齢・性別の人たちを巻きこんで、かなり大きなブームを作りあげつつあります。
 
 
 この『ねこあつめ』ですが、僕もじっさいにプレイ画面を見せてもらって、庭にやってくるねこたちが放っている魅力に、一撃でノックアウトされてしまいました。地球上で、この日本という国ほどかわいいキャラクターという存在にたいしてこだわりを持っている国は他にないと思いますが、『ねこあつめ』の猫たちのヴィジュアルやデザインのなかには、この国が培ってきたかわいいものへの愛が一心に凝縮されているという感じがします。きっと、このゲームの製作者は、猫やかわいいものが本当に大好きな方たちなのでしょう。
 
 
 このゲームの魅力を語りはじめるときりがないのですが、ここでは、猫たちがくれる「たからもの」の話をしてみたいと思います。庭にやってくる猫たちに遊び道具やご飯などをあげていると、彼らは、そのお返しに自分たち自身の「たからもの」をくれます。この「たからもの」は、セミの抜けがらや、サイン入りボール、かつお節など、一見すると何ということのないグッズたちなのですが、これらは、猫たちがこっそりととても大切にしつづけてきたものです。『ねこあつめ』をプレイしている方たちのなかで、この「たからもの」のシステムがいちばん好きなのだという方は、とても多い。そして、哲学の側からみても、この仕組みのうちにはきわめて豊かな教えが含まれているのだといえます。
 
 
 猫たちがくれる「たからもの」にあたる対象については、精神分析学という学問が、これをずっと熱をあげて追いもとめつづけてきました。ジャック・ラカンの「対象a」や、ドナルド・ウィニコットの「移行対象」は、みんなこの「たからもの」のことをなんとか言い当てようとした概念にほかなりません。ここでは、精神分析学の議論を念頭に置きつつも、『ねこあつめ』への敬意をこめて、ただ「たからもの」と呼ぶことにしましょう。
 
 
 「たからもの」はいわば自分の一部をなすものであり、おのれ自身であるとしか思えないグッズだ。それは確かに、他の人たちからみれば、小さくて取るに足らないものにしか見えないかもしれない。けれども、「たからもの」はじつは、わたしがわたしであるということを心の深いところで支えている、根源的な対象なのである。あまりにも昔のことだから、もう忘れられているけれど、人間が人間として生きてゆくようになるときには、あの猫たちと同じように、わたしたちはみな、このような「たからもの」を頼りにして自分という存在をつくりあげてきたのだ。本当は今でも、わたしにとっての「たからもの」は、変わることなくどこかに存在しつづけているけれども、このことが最もはっきりと体感できていたのは、やはりわたしたちが子供のころだったといえるのではないだろうか。「たからもの」こそが、わたしを今のわたし自身にしたのだ。かつてのわたしたちはみな、毛布を手放すことのできないライナスだったのだから。
 
 
ねこあつめ
 
 
 わたしたちが大人になるにつれて、「たからもの」はしずかに心の奥底のほうへと沈みこんでゆきます。それは、大人になるというのは、「たからもの」のような心の根源にかかわる対象は表に出しておかないものだというルールを学ぶことだからです。大人の世界においては、「たからもの」は慎重に隠されていなければならない。だからこそわたしたちは、コミュニケーションにおいて、とても丁寧にお互いのことを思いやるけれども、同時にいつもどこか空っぽなところを感じずにはいられないということにもなる。
 
 
 ところが、『ねこあつめ』では、わたしたちがふだん忘れているこの「たからもの」が、臆面もなくその顔をのぞかせてくれます。猫たちは、遊び道具やご飯をもらったお礼に、大人たちならひっそりとしまいこんでおくはずの「たからもの」を、じつに素直に手渡してくれる。「ありがとう、本当に楽しかったし、おいしかったです。代わりにわたしが大切にしている、これをあげます。本当に大事なものだから、あなたも大切にしてくださいね。」
 
 
 猫たちは、かしこい大人たちのやり方について無知なぶん、出会った人どうしの心がどうしたらもっと暖かいものになるのかを、よく知っています。そのためには、自分の「たからもの」を、ただ心をこめて手渡せばいい。受けとるほうも、たとえもらったものにそれほど魅力を感じとれなかったとしても、それが相手にとって言葉にできないくらいに大切なものなのだということを汲みとって、ただ気持ちよく受けとるだけでいい。そうすれば、「たからもの」そのものよりもずっと大切なものが、二人のあいだを流れてゆくはずです。もっとも、そういうことが気恥ずかしくてできないからこそ、大人たちは困っているわけですが!ここはひとつ、腰を低くして、スマートフォンの庭のなかで毎日なごんでいる、あの猫たちから学ぶべきところなのかもしれません。
 
 
 心の奥底に触れるような深いコミュニケーションが、猫たちとのなにげないやり取りのなかに実現してしまっている。『ねこあつめ』がたくさんの人の心をとらえて離さないのは、このゲームが単にかわいいからというだけではなくて、わたしたちの心そのものの秘密にまで迫っているからなのでしょう。でも、やっぱり猫たちが純粋に愛らしくて仕方ないということも、最後にもう一度強調しておきたいと思います。ああ、なんであんなにかわいいのでしょうか。今月の半ばには、アップデートの予定もあるようですよ!
 
 
 
 
(がんばってはみたのですが、猫たちについて、これ以上に短く語ることができませんでした。明日からはまた、もっとコンパクトにします。よい日曜日をお過ごしください!)