イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

21世紀、人文知の世界はこうなる(1)

  私たちはいま、視野を広げてみなければならないところに来ています。人文系の学問にたいして国から予算が出ないという問題を解決するためには、人文知が世の中の役に立つということを認めてもらわなければならない。けれども、そう考えはじめると、このことを文科省の方たちにたいして主張しさえすればことが済むというのではなく、問題の核はもっと根深いところに潜んでいるのだということが見えてきます。冷静にものごとを眺めたあとでイデーを思うさまたけり狂わせるというのが、哲学の醍醐味です。今日は、想像力を少しだけ羽ばたかせてみましょう!
 
 
  まずは、現状を別の角度から確認させてください。いま、人文系の学問にたいする信頼が、社会全体のなかでどんどん失われていっています。たとえば、大学の外では、思想や文学の存在感がかぎりなく薄くなっているという事実がある。おそらく、大学の予算にかんする今回のニュースはたんに、いまの時代を表すひとつの兆候にすぎません。私たちはじっくりと腰を据えて、時代そのものにたいして働きかけてゆかなければならない。人文知が今よりも社会のなかにもっと広く浸透してゆくならば、大学の予算の問題もきっとスムーズに解決するはずです。急がば回れとはよく言ったものですが、たとえ長いスパンを必要とするとしても、これこそが問題を根底から解決に向かわせてくれるプランなのではないでしょうか。
 
 
  というわけで、やりましょう。時代を変えましょう!「言うのは簡単だけど、そんなこと、どうやって実行するんだ。ムリだと思うな。」いえ、必ずしもムリではないはずです。むしろ逆に、時代の流れのほうが、もはや変わらざるをえないところにまで来ていると言ってもいい。よく言われることですが、ピンチはチャンスでもあります。大学の危機をくぐりぬけて、21世紀の人文知は新しく生まれ変わる。この変身を実現するために、新しいタイプの人びとが社会のなかに現れてくることになるでしょう。それが、インディペンデント知識人たちです!彼らの活躍こそが、学問と知をめぐるいまの状況をドラスティックに変えてゆくための起爆剤になるのではないか。ここでは、この線に沿って将来のことを考えてみることにしましょう。
 
 
  残念ながら、おそらくいまの時代には、大学の中にとどまっている人たちだけでは、人文知の世界を守りぬくことは難しい。大学がはたす役割の大きさは、人類の歴史の流れとともに変化しつづけてきましたが、この現代においては、大学の役割が相対的にみて縮小してゆく傾向にあると思います。その一方で、近年、少しずつですが、知を武器にしながら大学の外で自由に活躍する人びとが、すでに現れはじめてきています。インディペンデント知識人たちは、人文知や自然科学の知を、大学から離れたところで書いたり話したり教えたりすることによって生計を立ててゆく。彼らは、大学の研究者たちとも協働しながら、21世紀の知の世界を創りあげてゆくはずです。
 
 
人文知
 
 
  彼らは必ずしも、大学の研究者たちのようには専門に特化されていません。そのかわり、彼らは大学の外の人びとと自由に交流してゆくことに、とても長けています。わかりやすく、面白い。何にでも踏みこんでゆき、この資本主義社会のどんな細かい回路のなかにまでも入りこんでいって、活動する場所をイデーの輝きで満たします。人びとがそんなインディペンデント知識人たちの話を聞きたいと思うのは、ただ単純に、彼らの話がとてつもなく面白いからです。「なんだこの人、すごすぎる。一体どんな人生をくぐり抜けたら、こんなに面白い話がつぎつぎに出てくるんだ!」21世紀の青年たちの目はもう、縦横無尽に社会のなかで活動するインディペンデント知識人たちが繰りだすスキルに釘づけです。そして、彼らの存在に憧れてやまない、この青年たちのうちの幾人かが、また次の世代のインディペンデント知識人の役割を担ってゆくことになる。
 
 
 人文知の世界をマンガやゲーム並みにエキサイティングに語ることのできる彼らは、21世紀が生みだす最高の奇蹟でもある。人類はいま、高度資本主義社会のなかで哲学や文学がどのように生き残ってゆくことができるかということを、まさに実験している段階にあります。インディペンデント知識人たちはこの実験から生まれた、驚異のアノマリーです。知ることの喜びが誰にたいしても開かれているというのが、よい社会であるはずだ。インディペンデント知識人たちはそう確信しつつ、人類の歴史の流れに参加してゆきます。「格差社会反知性主義がたとえ時代の運命だとしても、そんなもの、知ることの喜びで吹きとばしてやる!」これこそが、彼らの人生を突きうごかす信念なのです。
 
 
  そして、大学もまた、インディペンデント知識人たちの活動を横目に見つつ、だんだんと変わってゆくことでしょう。少し言いにくいことですが、大学はここのところ、社会のなかに知の喜びを広げてゆくことに、それほど熱心に関わってこなかった。それはきっと、哲学や文学をはじめとする人文知の世界があまりにも楽しいものなので、説明なんていらないはずだとつい思いこんでいたからなのでしょう。けれども、私たちはみな、大学という場所が外の社会からもうずいぶん離れてしまったということに、今になってようやく気づきつつある。大学の人文知が生き残ってゆくことすら難しい今の状況のなかで、いつかは状況を変えるんだと信じて静かに勉強をつづけている若い研究者志望の学生たちは、僕のまわりにとてもたくさんいます。時代が悪くなってゆくなかでも、自分が信じている知を伝えてゆくという仕事に専念していらっしゃる先生がたから受けた学恩も、はかり知れません。大学はいずれ時がくれば、社会とのつながりをふたたび取りもどすことになるだろうと期待することができます。大学の研究者たちとインディペンデント知識人たちが力を合わせて知の世界を創りあげてゆく新しい時代がやってくるならば、人文系の学問の未来もきわめて明るいものになるのではないでしょうか。
 
 
  今日は、少しどころではなく、かなり大げさに書きすぎてしまったきらいがあります。けれども、明るい未来を思い描くことの喜びも、厳しい時代に向きあってゆくうえではとても大切なのではないかと思います。僕自身はこのシナリオを本気で信じています(!)が、もちろん、それとは別の道すじが存在するということも、大いにありえると思います。問題の解決策が、色々な人たちでさまざまに知恵を出しあうなかで、少しずつ見えてくるのを期待したいところです!人文系の学問の未来については、明日でいったん区切りをつけさせていただくことにします。
 
  
 
 
 (この記事は、「人文系の学問の未来を考える」という記事のつづきです。よろしければ、そちらのほうもご参照いただけると幸いです。)

 

philo1985.hatenablog.com

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