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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

21世紀、人文知の世界はこうなる(2)

  社会のすみずみにまで知ることの喜びを発信しつづけるカリスマである、インディペンデント知識人たち。彼らの活動がますます多くの人びとに知れわたってゆくことによって、人文知の世界のあり方が変わってきます。とりわけ注意しておきたいのは、「人文系の学問なんて、世の中の役に立たないじゃないか」というあの言葉が、もはや魔法のように意味を失ってしまうことです。
 
 
  世間の人びとから人気さえ集めてしまえば、もう「人文知は世の中の役に立つのだ」とわざわざ主張しなくても、大学の内と外とを問わず、きっと向こうから人文知を学びたいという人がつぎつぎに押しよせてくることでしょう。若者たちがこう言って迫ってくる姿が、目に浮かぶようです。「どうか私たちに、学問を教えてください!だって、最近とてもはやってるんでしょう?よくわからないけど、なんか、すごくカッコいい気がするんです!」そのさいに、若者たちがたんに知のかもし出す雰囲気に惹かれているだけだということを、気にもむ必要はないでしょう。知ることの本物の喜びをいちど味わってしまえば、もう彼らは、学問の魅力から逃れることはできませんから!
 
 
  かりに、あのマイケル・サンデルのような実力をもつインディペンデント知識人の若手が、この国のなかに新たに三人現れてきたとしてみてください。そうすれば、それだけでもう人文系の学問の状況は、だいぶよくなるでしょう。これがひと昔前ならば、誰かがこういうことを言ったとしても、ただのほら話だとしか思われなかったことと思います。けれども、さまざまな圧迫によって、大学で生きてゆくということが困難で、肩身のせまい思いをさせられる選択になりつつある今、気概のある若者のなかに、「よし、どちらにしろ大変なら、インディペンデント知識人の道をめざしてやろう」と考えるものが、ぞくぞくと出てきてもおかしくはない。危機の時代は、それを切りぬけるための人間を育てます。傑物をつぎつぎと輩出した明治維新のときのようなことが人文知の世界でも起こる可能性は、けっして低くないはずです!
 
 
  学問にポップな魅力を持たせるというと、かつて80年代の初頭にこの国をにぎわせた、ニュー・アカデミズムの流行という現象を思い出される方も多いかもしれません。数年のうちに起こることを予想できるインディペンデント知識人たちのムーブメントは、たぶんそれほど派手なものになることはないと思いますが、大学の外の人びとのあいだでの学問の認知度を高めてくれるという点では、まさしくこの流行と重なるところを持っていると思います。
 
 
  けれども、私たちがいま迎えつつある状況のなかでは、社会のなかで思想や学問の流行を引きおこすということは、かつてとはまったく別の意味あいをもってくることになる。人文系の学問はいま、大きな危機におちいっている。もっと学問の魅力を多くの人に知ってもらわなければ、学問それ自体の存続があぶない。少なくとも、いま何かの手を打たなければ、若手の研究者の卵たちは、なんの将来の保証もないまま、生き残るために、ただ業績を増やすことへと駆りたてられてゆくことになってしまうでしょう。そのことによって、研究を行っている人のあいだからも、何よりも大切な、あの知ることの喜びが失われてゆくかもしれない。それは、何よりも避けなければならないことだと思います。
 
 
人文知
 
 
  歴史の流れのなかでは、同じような課題を背負った人たちはいつも存在しました。古代のローマ人たちや、啓蒙の時代のフランス人たちは、より多くの人たちに知ることの喜びを伝える仕事に情熱を傾けました。学問を専門にしている立場からすれば、こうした試みはたんに二次的なものであるようにも思えるかもしれません。けれども、人文知がもたらしてくれる、あの、魂そのものを向け変えるような深い喜びを伝えるのは真に偉大な仕事なのだと、胸を張っていうことができると僕は思います。キケローやヴォルテールといった人たちは、この仕事を成しとげながら、同時に古典にも残るレベルの本まで書きあげてしまったのですから、恐ろしいものです。
 
 
  実は、いま直面している問題はなにも、日本だけにかぎったものではないようです。フランスにおいても、奨学金の出しかたなどの点で状況はかつてと同じではなくなってきているということを、先日耳にしました。グローバリゼーションが進んでゆくなかで経済からの圧力がだんだんと高まっている今の時代には、人文系の学問がなんの支障もなく花ひらいているところなど、おそらく地球上にほとんど存在しないのではないでしょうか。20世紀を生きた大哲学者たちも、グローバル資本主義のなかで人文知がしたたかに生き残ってゆくやり方を考えだすということについては、納得のゆく答えを出すことができなかったようにみえます。これはおそらく、私たちが生きているこの21世紀という時代が、知恵を出しあって答えを考え出してゆかなければならない問題なのでしょう。
 
 
  けれども、そう考えはじめてみると逆に、不思議とやる気もわいてくる。私たちの時代は、よく言われているような、空虚な時代などではない。今しかできないことが、確かにあります。先日話をした、フランス文学を専攻している後輩の友人は、「変な言い方になるかもしれませんが、こういう危機があるというのは、一面ではいいことなのかもしれないですね」と言っていましたが、彼のいうことに賛成です。まだ表面には現れてきていないように見えても、新しい時代がこれからやって来ようとしているのだと、僕は信じたい。この時代は、混乱に満ちたものにはなるでしょうが、知ることを愛するすべての人たちにも、ふたたび希望をもつことが許される時代になるはずです。そういう時がやってくる方向に向かって、少しでも歩みを進めてゆきたいものです。
 
 
  この二日間のあいだは不用意な表現をくり返し用いてしまいましたが、この問題に関心をもっていらっしゃる方たちの議論のきっかけにでもなれば、これ以上の幸いはありません。今日で、人文系の学問の未来についての記事は終わりにさせていただきますが、明日は、この問題にかんしてひとつだけ取りあげそこねてしまったことについて、書かせていただきたいと思います。四日間ものあいだ、長い文章を読んでいただいて、本当にありがとうございました。もしよろしければ、あと一日だけお付き合いください。
 
 
 
[すでにこの一連の記事について、さまざまなご意見や疑問をいただいています。明日の記事が終わったあとに、いくつかの点について補足させていただきたいと思います。]
 
 
 
(Photo from Tumblr)