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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

インディペンデント知識人について、もう少しだけ考えてみる(2)

人文知の未来 思想と社会
  今回の一連の記事を書いたあとに、友人から、「いまいち、インディペンデント知識人なるものが出てこなければならない必然性がわからない。別に、そんなものは出てこなくても大丈夫なのではないか?」という意見をもらいました。そこで、補足も最後となる今日は、人類の歴史の流れを新たな視点からもう一度眺めなおしつつ、インディペンデント知識人とでも呼びうる人たちがこれから現れてくるだろうと考えられる背景について考えてみることにします。
 
 
  21世紀の文化は、ハイカルチャーサブカルチャーとのあいだにはどのような関係性を築くことができるのかという、提起されたままになっている例のなじみ深い問題に、今度こそ腰を据えて取り組んでゆく必要があるのではないか。ここを、今日の出発点にしてみましょう。
 
 
  サブカルチャーは、20世紀頃からはとくに飛躍的な発展をとげてきました。サブカルチャーの強みは、教養や知識をとくに前提にしなくても楽しめることです。潜在的には社会の全人口をターゲットにできるので、資本主義社会のなかでも、ちゃんと創造性をたもちながら生き残ってゆくことができる。
 
 
  これとは反対に、ハイカルチャーのほうは、それを楽しむためにある一定の教養や知識をもっていることを前提とします。ハイカルチャーの世界を支配している原理は、売れ行きのいかんではなく、賞賛や批評です。つまりここでは、売り上げではなく、ほかの芸術家や批評家たちといった、高い見識をもっているとされている人たちの評価のほうがより重要になってくる。
 
 
 この二つのうちのどちらが文化をつくりあげてゆく原理として優れているのかは、実のところ、よくわかりません。けれども、現実問題として、資本主義の流れがまずます加速するにつれて、ハイカルチャーの原理はどんどん通用しなくなってゆくという事実があります。そして、それにかわって、サブカルチャー的な市場原理が前面に押し出てくるようになる。芸術がついにエンターテインメントに席を譲ってしまう、あの運命的な瞬間もまた近づいてきます。
 
 
  私たちは、ハイカルチャーがもう一度復活するかもしれないという予測が、もはや完全に成り立たないことが誰の目にも明らかなものになってしまった時代を生きています。これは、20世紀を生きていた多くの思想家たちからすれば、文化そのものの終わりを意味するような事態でした。たとえば、フランスの哲学者であるジル・ドゥルーズはこの点に関連して、「これからの人びとは、砂漠の中を生きてゆかなくてはならないから大変だ」というような意味のことを言っています。そ、そんな。つまるところ、私たちの21世紀は、もはやオワコンでしかないのだということなのでしょうか。もうちょっと救いのある言葉を残しておいてくれてもよかったでしょうに!
 
 
インディペンデント知識人
 
 
  いうまでもなく、私たちはこれとは別なしかたで考えてみる必要があります。まずは、サブカルチャー的な市場原理とはこれから先もずっと付きあいつづけてゆくことになるのだということを、受けいれること。けれども、それだけではなく、売れ行きだけで進んでいってしまうならば人間の心は枯れはてて、文化は必ず行きづまってゆくのだということをもまた、肝に銘じておくことです。私たちは、その両方の事情をかんがみて、スピード感のある永遠性を、あるいは同じことですが、イデアの無限速度を追求してゆく必要があるのではないでしょうか。もしもそういうことが可能だとするなら、この21世紀においても、芸術的な妥協をする必要などはいささかもなくなるでしょう。
 
 
  たとえば、20世紀のこの国を代表する作家である、安部公房さんの作品について考えてみましょう。彼が活躍した時代は、ハイカルチャーサブカルチャークロスオーヴァーした、いちばん最初の時期に位置しています。一方で、彼の文学は、少しも躊躇することなしに、ハードコアな領域を妥協なく探求しているということができる。この領域においては、SF的な未来と現実の管理社会の見分けがもはやつかなくなり、読者はそこで、まるで人体実験にかけられているような冒険のプロセスをくぐり抜けます。そして、小説のラストにまでたどりつくと、読んでいる自分は、実はもうすでに死んでいるのだということに気づかされることになる。人間は、死んだあとにはたしてどんな夢を見るのだろうか。これは、あのハムレットが戦慄して、その前で立ちどまらざるをえなかった問いです。けれども、安部公房さんは、ある強迫的な衝動のようなものに駆りたてられて、この問いのほうへとつねに踏みいってゆかずにはいられませんでした。つまるところ、この問いかけだけが彼の唯一のテーマだったのだと言ってもいいくらいです。
 
 
  それにもかかわらず、他方では、安部公房さんの小説は、誰が読んでも文句なしに面白い。『箱男』などは、こんなにポップにしてしまっていいのかというくらいに展開がスピーディーで、しかも、最後の部分では、数ページごとにすべての話がひっくり返されるというサービスぶりです。こういう作品は、高度資本主義社会のなかでなければ、けっして書かれえなかったでしょう。
 
 
  おそらく、来たるべきインディペンデント知識人たちは、こういうタイプのものを書いてゆく存在として、これから本格的に登場してきます。誰にでもわかりやすく、きわめてキャッチーであるにもかかわらず、生きることの最も深いところにまで踏みこんでいるようなものを書くことができるならば、人びとは、それがハイカルチャーサブカルチャーかなどということはもう気にすることなく、ただそれを読みふけることでしょう。
 
 
  正しいだけでは、遅すぎて勝てない。けれども、売れているだけのものなんてまっぴらだ。インディペンデント知識人たちは、ハイカルチャーサブカルチャーのあいだに存在している、不確定の中間領域を飛びまわります。そのことによって、万人のための人文知というイデーが、はじめて本気で正面から問われることになると期待したい。すべての人のための文化。それにもかかわらず、妥協するところのまったくない文化。テクノロジーの発達と社会構造の進化のおかげで、人類はついにそういうものの可能性を問えるところにまで来たのだと考えるならば、これからの生きがいも出てくるというものです。
 
 
  今日で、インディペンデント知識人についての考察の補足もいったん終わらせていただいて、明日からはまたふだんのブログに戻ります。五日間にくわえて二日のあいだ、ありがとうございました!この話題には、いずれまた折を見て、ときどき立ちもどらせていただきたいと思います。
 
 
 
(Photo from Tumblr)