イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

現代のブッディスト、ジル・ドゥルーズ(1)

ひとつの生は、潜勢力、特異性、出来事からなる。潜勢的と呼ばれるものは、現実性を欠いたなにかではない。そうではなく、それに固有の現実性を与える平面にそって、現勢化のプロセスにはいってゆくものだ。
ジル・ドゥルーズ「内在 ーひとつの生……」
 
  20世紀のフランスを代表する哲学者の一人であるジル・ドゥルーズですが、その思考のエッセンスは実のところ、驚くほどに東洋的なものと共鳴する部分を多くもっているといえるのではないでしょうか。ここで参照した論文は、かれが最晩年に書いたものですが、それだけに、余分なところがすべて削ぎおとされて、かれが最も言いたいことの核心が、きわめて簡潔に述べられています。ラディカルなスピノジスト?存在論的に洗練されたベルグソニスム?多元論に開かれたニーチェ主義?それでは、これらの言葉に加えて、現代のブッディストという呼び名はどうでしょうか。すこし検討してみることにしましょう。
 
  
  たとえば、ここで挙げたドゥルーズの文章と、これと同じくらい短い、ナーガールジュナ作と伝えられる『大乗二十頌』を比べてみるとただちに、二千年近くの時のへだたりを超えて、ヨーロッパとアジアのあいだで思考のシンクロナイゼーションが起こっているということに気づかされます。じつは、現代の文献学によるならば、この短いテキストがナーガールジュナ本人によって書かれたものであるかどうかは疑わしいということになっていますが、それでもこの文章が、黎明期の大乗仏教のうちに沸きたっていたイデーを体現していることには間違いがありません。それでは、二つのテキストをつらぬいているものを見てみることにします。
 
 
ジル・ドゥルーズ
 
 
  ドゥルーズも擬ナーガールジュナも、ふだんの私たちの生は、主体と対象というものの見方のせいでひどく曇らされていると考えます。たとえば、「私が雨を見ている」と口にするだけで、リアリティーそのものは、もう取り返しのつかないかたちで捉えがたいものになってしまう。本当は、見ている私なるものも、見られている雨なるものも、あとから生まれてくるものにすぎないのに、私たちは言葉にあざむかれて、そういうものがもともと存在していたのだと考えてしまう。ドゥルーズはこうした思考の対象を超越と呼んで、そこから距離を取ろうとしていますが、擬ナーガールジュナは同じことを、次のように表現しています。世の人びとは、世界なるものが存在するのだと妄想しているのだ。彼ら自身の存在を妄想しているのと同じように。
 
 
  主体や対象は、あとから生まれてくるものにすぎない。でも、いったい何のあとだというのでしょうか。主体も対象もないところに、はたして何かが存在すると言えるのでしょうか。ドゥルーズと擬ナーガールジュナの答えは、次のようなものです。そういう風に言うことができる、どころではない。真実のリアリティーに目覚めたいと思うなら、見ている私も、見られている対象ももはや存在しない経験のレヴェルに、ただちに飛んでゆく必要がある。あらゆる文学はこの領域のうちへと熱病のように駆りたてられてゆくものだし、すべての菩薩たちは、輪廻を超えたこの聖なるゾーンのボーダーを超えて、私たちを救うために現れでてくる。存在するということの意味について、もう一度根本から考えなおしてみよう。二元論を超えて、生そのもののイデアルな根源にまでさかのぼるのだ。
 
 
  この領域こそ、ドゥルーズが潜勢的なもの、特異なもの、出来事と呼ぶもののレヴェルにほかなりません。そして、擬ナーガールジュナによるならば、このヴァーチャルなもののレヴェルにおいては、すべてのものは絶対的に清らかで、しかも波風ひとつ立つことなく静まりかえっているのだといいます。見ている私も、見られている雨をも超えて、雨降りの出来事そのものへ。次回は、このことの意味をもう少しくわしく探ってみたいと思います。
 
 
 
(Photo from Tumblr)