イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

荒木飛呂彦さんをたたえて

  ひとたびジル・ドゥルーズについて論じてしまったあとでは、この国最大のドゥルージアンの存在にも、この際ぜひとも触れておきたいという思いを止めることができそうにありません。『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズを描いていらっしゃる荒木飛呂彦さんこそ、このフランスの哲学者が指し示した方向にむかって、どこまでも遠くへと突き進んでいる作家だといえるのではないでしょうか。ここでは、昨日までの議論も踏まえつつ、荒木さんの描くこのマンガが備えている魅力について考えてみたいと思います。
 
 
  あくまでも私見になりますが、荒木さんの作品は、とくに若い世代の人たちのあいだでは、非常に大きなリスペクトの対象になっているように見受けられます。『ジョジョ』シリーズがもつ魅力について語りあっている人たちのあいだには、「自分たちは今、何かとてつもないものについて話しているのだ」という、ある種の畏敬の念のようなものが漂っている。この雰囲気は、ただたんに面白いものについて語っている時に漂っている熱気とは違います。高貴なものがしだいに姿を消してゆくのが現代という時代の特質であるとは、よく言われることです。しかし、この指摘がいささか性急にすぎるものであるというのは、『ジョジョ』シリーズのファンたちの反応を見ればわかる。吉良吉影やブローノ・ブチャラティといったキャラクターたちの存在を輝かしいものにしているのは、まさしく、魂のうちにある高貴さから立ちのぼってくるアウラにほかなりません。
 
 
  いわゆるハリウッドのB級映画に見られるスピード感とバイオレンスを完全にものにしながら、そこにSF的な設定までをもハングリーに盛りこんでゆくという異様なセンス。スラングを多分に織りまぜながら、日本語の持っているポテンシャルをどこまでも深く掘りさげつつ展開されてゆく会話シーン。このようなしかたで大衆性と芸術性とを同時に追求できる感性ということでいえば、クエンティン・タランティーノをはるかに飛び越して、ウィリアム・シェイクスピアという名前が思い浮かんできます。エリザベス朝演劇に熱をあげていた16世紀イギリスの人びともきっと、この週刊少年漫画の生きたレジェンドに夢中になっている人たちと同じような気持ちで、次のシェイクスピアの劇はいったい何だろうかと、心を躍らせていたことでしょう。
 
 
  粗野と高潔とのあいだに成りたつ奇妙な結婚。言葉遊びに注がれる飽くなき情熱。アンダーグラウンドから一気にハイカルチャーの中核にまで切りこんでゆきかねない、測定不能の破壊力。すでに触れたこれらの特質はすべて、シェイクスピアその人の作品にもそのまま当てはまります。けれども、ここでシェイクスピアのことを引き合いに出したいちばんの理由は、まずもって、『ジョジョの奇妙な冒険』のあらゆるページを支えているイデーが、この人が書きあげたすべての戯曲のうちにも共通するものだからです。言うまでもなく、「人間賛歌」というのが、このイデーに付けられた名前です。
 
 
  人間性の永遠というものがもしあるのだとすれば、それは、抽象的な論理のなかなどで感じとることができるものではない。永遠なるものは、スリルとサスペンスあふれるドラマの中でこそ、真に生き生きと閃くのだ。ウィリアム・シェイクスピア荒木飛呂彦さんが共有しているのは、こうした深い確信にほかなりません。今の時代は、表面から姿をひそめるようになりはしたけれども、本当はまだ根深いところに生き残っているニヒリズムによって、人間そのものにたいする信頼が静かに失われつつある時代でもあると思います。しかし、この二人の作品には、そういう雰囲気をまとめて吹きとばすだけの力があるといえるのではないでしょうか。善も悪もきわめて前向きに参加してゆく彼らの作品を前にしては、人間は無であるという言葉さえもがかすんでしまいます!アランという哲学者はあるところで、「オプティミズムは意志によるものだ」と言っていますが、そういう意志の実例をもし見てみたいのなら、『ジョジョ』のページをめくってみるのがいちばん手っ取り早い方法なのかもしれません。
 
 
  すでに記事の分量が尽きてしまい、ドゥルーズの方にまで進むことができませんでした。次回からは、昨日までの議論をふまえて、『ジョジョ』シリーズを読むことから見えてくるものを探ってみたいと思います。僕もこのマンガの大ファンですが、この作品を愛している方たちは、みなさんそれぞれ一家言をお持ちのことと思います。至らないところがあるとしても、どうかご容赦ください!