イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

『ジョジョの奇妙な冒険』の形而上学(1)

なにかわからないが、この感覚……ぼくのこの『ゴールド・エクスペリエンス!』もっと生まれるような気がするッ!もっと何かが生まれそうだッ!

 
  私たちは、『ジョジョ』の全編をとおして、プロセスの感覚とでも呼ぶべきものが常にみなぎっているのを感じとることができます。このことの意味をより詳しく探ってみるために、ここではまず、英文法の知見を参照してみることにしましょう。
 
 
  英語の文法においては、現在形と現在進行形を区別します。現在形が、言葉のうえでは現在とは言いながらも、その内実はむしろ、ふだんの定常的な状態を表すのにたいして、現在進行形のほうは、今まさにこの瞬間に起こりつつある、真のプロセスそのものを表します。『ジョジョ』における動詞の時制は、「be 〜ing」以外のものではありえない。冒頭にかかげたジョルノ・ジョバァーナの言葉は、現在進行形という時制がはらんでいる神秘に、どこまでも深く裏打ちされたものにほかなりません。
 
 
  現在形の定常的な状態においては、「AはBだ」という言明がなりたつとき、Bは固定された述語として、主語であるAのなかに閉じこめられます。He is happyにしろHe plays the pianoにしろ、「幸せであること」や「ピアノを弾くこと」は、意味を固定された性質として、主体のうちに安全に包摂されることになる。主体は、この言明のうちで、難なく自己同一性をたもつことができます。プッチ神父というキャラクターは、宇宙のプロセスすべてを、現在形の時制のうちに閉じこめてしまおうとしました。彼の目論見が成功したあかつきには、人生のすべての出来事は、あらかじめ予想されたものになる。彼のいうところの「覚悟」する人間とは、未来に包摂されることになる、あらゆる述語を前もって肯定する主体のことです。
 

『時の加速」により『加速』の行きつく究極の所!『宇宙』は一巡したッ!新しい世界だッ!

 
 
  しかし、こういう世界のことを、はたして新しい世界と呼べるのだろうか。『ジョジョ』における荒木さんの闘いの焦点のひとつは、あのエンポリオ少年と同じように、プッチ神父のような世界の見方にたいして、全力で抵抗するところにあります。同じ宇宙を永遠にくり返しつづけるかわりに、別のしかたでもう一度始めなおすこともできるのではないか。「すべてのものごとをあらかじめ決定する運命」というイデーに執拗に取りつかれながらも、荒木さんは作品のなかで、ずっとそのような問いかけをつづけています。そして、この問いかけは、概念と文字と論述のかわりに、イメージとセリフとドラマによって行われることになりました。『ジョジョの奇妙な冒険』は、SFとアクションを織りまぜた、まったく新しいタイプの形而上学的探求なのです。
 
 
  ところで、こういうタイプの哲学的思考がエンターテインメントのなかにこれほど深く食いこんでゆくようになったのは、私たちの時代がはじめてだと思います。高度資本主義社会の到来にともなって本格的に開始されたこの傾向は、資本主義システムが情報プロセスそのものと一体のものになっていった20世紀の終わり以降はとくに、ますます加速の一途をたどっています。いまや、子供向けのアニメーションから、老年層もターゲットにしたTVドラマにいたるまで、ロジックとメタフィジックが、あらゆるところで私たちのフィクションを覆いつくすようになっている。こうした事態にたいして、マンガをはじめとするこの国のサブカルチャーは、他国に比べてもとても早くから敏感に対応してきましたが、『ジョジョの奇妙な冒険』は、この領域においては紛れもなくアヴァンギャルドの位置にいます。極東の最前線で行われつづけているこの文化的実験から、これからも目を離すことのできないゆえんです。
 
 
  現在形は、主語と述語とを安定したかたちで保ちつづける。それでは、この時制の専制にたいしてノーを突きつける現在進行形の世界のほうは、どうなっているのでしょうか。どうやら、百戦錬磨のスタンド使いたちは、敵の脅しにたいしてのみならず、偽りの運命論の圧迫にたいしても、「だが断る」と言い切ってみせるつもりのようです!彼らが生きているリアリティーとは、はたしてどのような内実をともなうものなのでしょうか。次回は、この点に迫ってみたいと思います。