読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

『ジョジョの奇妙な冒険』の形而上学(2)

現代のブッディスト、ジル・ドゥルーズ 哲学
産まれろ……生命よ……産まれろ、新しい命よ……
 
 
  『ジョジョ』のうちに見られるプロセスの感覚には、生命的なものの質感がともなっています。SF的な設定を自由自在に操りながらも、マンガの展開がけっして頭のなかだけのものに終始することなく、生々しい感覚を含む、きわめて肉体的なものになりえているというのは、本当に驚くべきことだと思います。
 
 
  たとえば、『ハンター×ハンター』のようなマンガが否応なくひとを魅了するのは、複雑な記号ゲームを巻きこんだ駆け引きのもたらすスリル感によるということができます。これにたいして『ジョジョ』の方は、そういう要素もなくはないとはいえ、読者がコマを読みすすめながらじっさいに身体変容のプロセスを体験してしまうところにこそ、その真骨頂があるといえるのではないでしょうか。このことは、荒木さんの描いたコミックスのページをめくってみたことのある方には、実感をともなって納得していただけるのではないかと思います。サクランボを舌でねっとりと転がすような、あるいは、這いまわっているクモを指でつまんでそのまま舐めるような、触覚的視覚の冒険。おぞましさとクールさとが共存するイメージは、ルイス・ブニュエルの短編映画を彷彿とさせます。
 
 
  こうしたイメージが提起する問題系はまた、ジル・ドゥルーズが「器官なき身体」と呼んだものの領域へとダイレクトにつながってゆきます。器官なき身体とは、一つの組織体に統合されることのないままに、無数の特異性が配分されるための震源地として存在する身体のことです。発生中の胚のような、この生成途上の理念的身体のレヴェルこそ、スタンド使いたちが生きるリアリティーの位相です。
 
 
  この位相はとくに、スタンドという特殊能力が進化をとげてゆくさいに、はっきりと表に現れでてきます。スタンドが次のフェーズへと進んでゆくあいだにかいま見られる、決定不可能状態。ACTとACTのあいだをつなぐ、もはや「ドーダコーダ」言うことのけっして許されない間隙。どこまでも生命的なものでありながら有機体には反するという、このパラドキシカルなフェーズをくぐり抜けると、スタンドはすでに、一味ちがうものへと進化をとげています。「柔らかいということは、ダイアモンドよりも壊れない。」こういうセリフが口をついて出てくるためには、この謎めいた器官なき身体なるものの存在について、あらかじめ熟知していなければならなかったことでしょう。
 
 
  これと同じ事態を、論理・文法的なアスペクトから見てみます。ジル・ドゥルーズの思考から多大なインスピレーションを受けつつ、こちらの方でも形而上学的想像力をふくらませてみるなら、時制としての現在進行形には、ある秘密が含まれていると考えることもできる。その場合には、「be 〜ing」はたんなる状態を意味するのではなく、いわば、生成の時間がはらんでいる狂気を指ししめすことになるでしょう。たとえば、He is talking to himself。あまりにも有名になってしまった、あの独り言のシーンを見てみることにしましょう。
 
ヤツらを探しだすために……『根掘り葉掘り』聞き回るの…『根掘り葉掘り』…ってよォー。根を掘るってのはわかる…。スゲーよくわかる。だが『葉掘り』って部分はどういうことだああ〜〜っ!?葉っぱが掘れるかっつーのよーーーッ!ナメやがって、クソッ!クソッ!
 
ギアッチョ
 
  この場合、talkingはもはや主語に包摂される述語であることをやめて、決定不可能な未知のプロセスのうちに入りこみ、その意味をいわば虹色に輝かせることになる。安全だったはずの主体の同一性が破壊されるのみならず、ここでは、言葉の方もまた、言葉自体の限界に向きあうことにならざるをえません。それは、自分がしゃべっているはずの言葉の意味がなぜか突然わからなくなってしまう、狂気そのものの瞬間です。be talkingは、そういう瞬間にこそ初めて、be talkingそのものに生成しなければなりません。
 
 
  言語とメタ言語の区別がつかなくなり、言葉と物の境界すらも曖昧になってしまう現在進行形の世界には、けっして思考によっては完全に汲みつくされることのないゾーンが横たわっています。これこそが、終わりがないのが終わりであるとしか言えないような、生成の神秘の領域にほかなりません。スタンド使いたちの闘いはつねに、この玉虫色の地帯の内側において行われるのだと言うことができそうです。
 
 
  言葉が言葉でなくなるこの生成の瞬間を、哲学は常に捉えそこねます。だからこそ、『ジョジョ』のようなドラマとイメージの探求も、より一層重要なものになってくる。ともあれ、言葉の限界に挑もうとしてあわてふためいたせいで、今日はだいぶ理屈じみた記事になってしまいました!やはり、『ジョジョ』本編のようには、なかなかうまくゆかないものです。次回は、『ジョジョ』シリーズが全体として指し示している方向について論じつつ、この一連の記事にいったん区切りをつけたいと思います。