イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

わたしの欲望がこの世を超えるとき

 
今はゆかむ  さらばと云ひし夜の神の  御裾さはりて  わが髪ぬれぬ
 
  神は、わたしのもとにやって来る。プリミティブな神学的思考が『みだれ髪』の世界のうちにも突如としてよみがえっているのを、私たちは見いだします。「わたしのもとを訪れるあの人は、神である。」その言葉のもっている意味はおそらく、どこまで深いところに届いているのかさえもわからないくらいに、根底的なところに触れているのでしょう。
 
 
  若かりし頃の晶子は、とどめることのできない自分の情熱に引きずられるようにして、超越のモメントのうちに身を委ねてゆくことになりました。『みだれ髪』の「臙脂紫」というセクションにおいては一方ではなまなましいエロスとむき出しのテオファニーとが、他方では色彩や触覚と形而上学とが、たえず浸透しあっています。わたしの肌に触れなさい、髪をかき乱すほどにわたしの体を求めてみなさいと、神にむかって挑発してみせる。そのことによって晶子は、この国の最も古い伝統のひとつを、おそらくは自分でも気づくことなしによみがえらせることになりました。この伝統とは、神と人とのあいだにむすばれる、性と身体を巻きこむ愛の歴史にほかなりません。『みだれ髪』はもちろん、西洋的な恋愛意識の目覚めをしるしづけたものでもありますが、それと同時に、これほどまでに古代的な歌集はないということもできます。この歌集は、『万葉集』をもはるかに超えて、まだ人が神と生身のつながりを保っていた時代の、性の原初のかたちに触れているのです。
 
 
与謝野晶子
 
 
  駆け足ですが、四回のあいだ、女性歌人たちに助けを求めつつ、恋を歌いあげることについて考えてきました。古代から平安時代をとおして近代にいたるまで、エロティシズムからスピリチュアリティーへという移行はどうやら、恋の歌を詠む人間がときに、無意識のうちに反復せざるをえないモメントであったようです。
 
 
  わたしとあなたとのあいだに言葉がやりとりされるとき、わたしは身体の欲望をもまぜこぜにしながら、あなたの存在そのものを欲望しはじめます。わたしはあなたのことを、身体から心にいたるまで、すべてが欲しくてたまらないと思う。あなた自身には何も残さないというくらいに、わたしはあなたを自分のものにしたい。わたしはあなたを愛しているのだけれど、あなたのうちにあなた以上のものを見るがゆえに、わたしはあなたを切り裂きたい。
 
 
  このように狂おしい欲望をかかえた人は同時に、この世を超えるものを幻視することにもなります。スピリチュアルなエネルギー、わたしの内から憧れるようにしてあふれ出る、わたしの魂そのもの。そして、神。あなたのうちにいる、あなたを超える誰か。この世がこの世であるために存在しないことにされてしまう、すべてのもの。正気の世のなかが何を言っているとしても、自分でも自分が何を求めているかがわからないとしても、そんなことはどうでもいい。この時を逃してしまったら、わたしはわたしが求めているものを、いつまでも見つけることができないかもしれないのだから。歌う人は、そのような止みがたい衝動に駆られて、いつの時代においても変わらず歌いつづけてきました。
 
 
  現代は、短歌だけではなく、あらゆる言葉の営みが行き場をなくしてさまよっている時代です。けれども、他のものではどうしようもなく、言葉によってしか生きることができないという人たちは、今でもたしかに存在しています。その人たちはきっと、時代の流れがどのようなものであるとしても、自分たちの営みを手放すことはないでしょう。とどまりつづけることの中でこそ、転回は起きます。ことによると、この現代に言葉の価値をよみがえらせるためには、この世を超えるものの意味について、もう一度考えなおしてみる必要があるのではないでしょうか。性急に理性をふり捨ててしまうのではなく、歴史的な視野をもって思想や芸術といった領域をひろく眺めつつ、超越の問題について知恵をしぼって考えてみることで、つぎの時代にも手渡しうるものを育んでゆくことができるのかもしれません。
 
 
  たまたま和歌を取りあげてみたところ、予想に反して四回にもわたる記事になってしまいましたが、なんとか終わらせることができました。ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。よい週末をお過ごしください。