イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「われらとわれらの子孫のために」   ー日本国憲法について考える

 
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
 
  いま、憲法についての議論が、世の中をにぎわせています。憲法9条集団的自衛権をめぐるこの問題は、人びとの注目を、この国の全体へと広げつつあります。僕のまわりでも、ふだんは政治にあまり関心を持っていない人たちまでもが、なにかとても大きな問題が起こっているらしいという気配を感じとっているように思います。
 
 
  私たちはふつう、ある社会問題の重要性の大きさを計るさいには、理屈でうんぬんするよりもまず、その問題を取りまく雰囲気で感じとっています。今回の場合、その雰囲気を言葉によって言い表すなら、次のようになるでしょうか。「この問題はたしかに、なにかの事件や事故のように、今すぐに対応しなければならないというものではない。かりに集団的自衛権を認めたからといって、そのあとに具体的に何が起こるのかということは、おそらくまだ、誰にも正確には予測できない。けれども、この問題が、この国がこれから向かってゆく方向にとても大きくかかわっているということについては、はっきりと感じとることができる。今きちんとやることをやっておかないと、長い目で見たときに、なにか大変なことが起こってしまうかもしれない。」
 
 
  ここ数十年ほどの私たちは、憲法と自分たちのかかわりについて、いまほど真剣に考える必要に駆られたことはありませんでした。だからこそ今、私たちのうちの多くの人は、この問題にいったいどうやって向き合ってゆけばいいのか、すこし不安に感じています。先週、僕が話す機会のあったアルバイト先の経営者の奥さんは、次のように言っていました。「これがとっても大切な問題だっていうことはわかるんですけど、何を考えたらいいかっていうことになると、もうわからないんです。憲法みたいな大きな問題になると、もう思考が停止しちゃうというか……」
 
 
  憲法とは、そもそも何なのでしょう。日本国憲法は私たちの一人一人にたいして、どういう関わりを持っているのでしょうか。もちろん、具体的な問題については、今のうちにしっかりと議論を重ねておく必要があることは、いうまでもありません。けれども、今のこの状況を、ふだんは話し合わないようなことについて、少し腰を据えて話しあうためのよい機会として捉えることもできるのではないでしょうか。今日から数回にわたって、日本国憲法について、今のこの国の現状をも踏まえつつ、哲学の観点から考えてみたいと思います。
 
 
日本国憲法
 
 
  今日は、この問題について考えはじめるための入り口として、冒頭に挙げた、日本国憲法前文のはじめの部分に注目してみたいと思います。この前文からは、ふだん使うことのない二字熟語がたくさん並んではいますが、くり返し読めば読むほど、「なんと、私たちの国の憲法は、実はこんなにすばらしいことを言っていたのか!」という驚きを味わうことができます。今まであまり身を入れて読んだことがなかったけれども、関心があるという方がもしいらっしゃるなら、ぜひ前文の全体を読んでみてください。三分もあれば読めると思います。
 
 
 
 
  ここでは、ほかの部分は置いておくことにして、「われらとわれらの子孫のために」という表現を取りあげてみます。
 
 
  この表現は、国のもっとも大切な法律である憲法は、私たちのためだけにあるのではないと言っています。「憲法は、いま生きている人のためだけにあるのではない。国は、これからこの国のうちに生まれてくる子供たち、はるか先の子孫たちのことをも考えなければならない。そのために私たちがどういう国づくりをしてゆくかということを宣言しているのが、憲法だ。今この時のことだけではなく、はるか先の未来のことも考えよう。そのように決意しつつ、私たちはここに、この憲法を確定する!」
 
 
  な、なるほど。なんだか、あまりにも立派すぎて、ちょっとついていけないという気もしてきます。けれども、根本のところで言いたいメッセージは、とてもよく伝わってくる。
 
 
  プラトンヘーゲルといった哲学者たちが、人間と国家は考えもつかないくらいに深い関係で結ばれていると考えたのも、おそらくこれと同じポイントが関係しているのでしょう。私たちは、自分が生まれてくる国を選ぶことができません。私たちが日本という国に生まれてきたのも、運命の流れのようなものによって、気がついたらこの時代のこの国に生まれていたというのが実情なのではないでしょうか。国というものは、そこに生まれてくる人間の人生のあり方を、抗いようもなく決めてしまう。だからこそ、人間は自分が生きている国のあり方に、よく注意を払っておく必要があるということにもなります。
 
 
  僕は、この国に生まれてくることができて、とても幸運だったと思っています。もちろん、色々な問題はあるかと思いますが、たとえばこの国は、他の国に比べればとても平和です。医療や福祉は充実していますし、おまけに、食べ物までもがとてもおいしい。だからこそ、この先に生まれてくる子供たちにも、できるだけこれと同じような幸運を与えてあげたい。たとえ、今よりも経済的にみれば恵まれていない状態になるとしても、「この国に生まれきてよかったです」と子供たちにも言ってもらえるような国にしてゆくのは、私たちの義務でもあると思います。
 
 
  義務という言葉は、すこし重い。けれども、義務をきちんと果たせるということほど、人間を幸福にしてくれるものもありません。先ほど紹介させていただいた奥さんも言っていましたが、未来の人たちのことを考えることができるというのは、じつは私たちにとっての大きな喜びでもあります。私たちの時代がつぎの時代によい国のかたちを手渡すことができるとしたら、それは私たち自身にとっても、大きな誇りになることです。「まだまだ色々問題は山積みだけれども、私たちはいちおう、これだけのことをやった。あとは、これからの時代を生きる君たちにこの国の未来を託します!」とても難しい問題ではありますが、将来、自信をもって未来の子供たちにそう言えることをめざして、今週はこの憲法というテーマについて、もう少し考えてみることにします。読んでくださる方たちの議論のきっかけになることができれば幸いです!