イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

憲法について、あまり知られていない話   ー89条後段をめぐって(1)

 
公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便益もしくは維持のため、または公の支配に属しない慈善、教育もしくは博愛の事業に対し、これを支出し、またはその利用に供してはならない。
 
  まずは、日本国憲法をめぐる現在の状況を考えてみることにします。けれども、ここでは、問題の渦中にある9条を取りあげるのではなく、別のケースを紹介させてください。東京基督教大学で教授をなさっている稲垣久和さんという方がお書きになった『実践の公共哲学   福祉・科学・宗教』(春秋社、2013年)という本のなかから、憲法89条後段についての議論をこれからピックアップしてみたいと思います。このケースを検討することをとおして、私たちの憲法が今どのような時期を迎えているのかということが、具体的に明確になってくるはずです。
 
 
  憲法がじっさいの社会にどう関わっているのかということについて、私たちのうちの多くは、それほど詳しくありません。その点、この89条後段をめぐる話は、憲法がじっさいの世の中で機能している様子を学ぶのにはぴったりのものです。さらに、この条項をめぐる状況は近年になって大きな変化を見せたので、日本国憲法のアクチュアリティーを問うという意味でも適格な素材です。それでは、すこし理屈っぽい話にはなってしまいますが、稲垣先生が本のなかでおっしゃっていることを再構成してみることにします。
 
 
89条後段
 
 
  今回問題として取りあげたいのは、国のお金の用い方と福祉の領域をめぐる条文です。まずは、上にあげた89条の条文のうち、前半部分は今回の議論にはかかわってこないため、見やすくするためにも削ってみることにしましょう。それから、教育の問題も今回の話とは直接には関係がないので、文言から削除することにします。そうなると、89条後段部分の本文は、次のようになります。
 
 
公金その他の公の財産は、公の支配に属しない慈善もしくは博愛の事業に対し、これを支出し、またはその利用に供してはならない。
 
 
  「な、な、何を言っているんだ。全然わからないよ。」たしかに、これでは難しいので、もっと簡単な言葉に直しましょう。この条項にかんする、憲法成立当初の解釈は、次のようになります。
 
 
当初の解釈:  国のお金は、民間団体がおこなう福祉事業に使ってはいけない。
 
 
  このような条項が存在していることのいちばんの理由としては、歴史的な状況があります。日本国憲法が制定されたころ、GHQは日本国政府に、「民間団体に福祉事業を委託してはならない」という方向で指令を出していました。いうまでもなく、当時のGHQが最も避けたかったのは、戦前の状況をもう一度くり返すことです。戦前のように、「お国のために犠牲をいとうな」などといって国と民間団体とが協力しあうようなことをなくすために、上のような指令が出されることになりました。そして、その流れのなかで89条後段の上記の箇所も成立するにいたった、というわけです。
 
 
  ところが、現在の状況は、当時からはだいぶ違ったものになってきています。20世紀の終わりになってから、社会の高齢化にともない国がおこなう福祉の方針が大きく転換され、介護保険制度が導入されることによって、今では、民間企業やNPO介護保険事業に参入してゆくようになりました。つまり、国と民間団体が制度のうえで協力しあいながら、介護福祉を支えてゆかなくてはならなくなったわけです。これは、国のお金がこれらの団体に流れてゆくことになったということを意味します。
 
 
  身近な例でいうならば、ある家庭のなかで、今まで家族と一緒に暮らしていたおばあちゃんが、グループホームに入ることになったとします。国からは、介護代の約九割がグループホームにたいして支払ってもらえるために、家族の側は、介護代にかんしては一割程度の金額を負担するだけですむことになります。おばあちゃんも国から経済的に助けられながらホームに入ることができて、ひと安心です。けれども、この実情ははたして憲法に合致しているのでしょうか?国が、グループホームを経営している民間企業にお金を払うということは、先ほどの89条後段に反しているのではないでしょうか?
 
 
  現在の介護保険制度をめぐる現状は、89条後段のもともとの解釈からするならば、憲法から外れている可能性があるということになります。この状況を違憲状態にしないためには、どうやら、89条後段を別なふうに解釈してみる必要があるようです。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
 
[本文中で述べたことについて、2点補足させていただきます。
 
  まずは、「公の支配に属さない事業」という表現についてです。上では「民間団体」と同じ意味をもつ言葉として取り扱ってしまいましたが、じっさいには、公の支配に属する民間団体(社会福祉法人)も存在します。そのため、厳密にはこの言い換えは正しくはありませんが、話を簡潔にするために、このように表現させていただきました。正確には、「民間団体のうち、公の支配に属さないもの」としてください。
 
 
  次に、グループホームをはじめとする第二種福祉事業については、国の示す基準を満たしたものについて助成金を渡すということになっています。国の基準を満たしている時点で、「公の支配に属する」と判定する立場もありえますが、この場合には、民間企業も「公の支配に属する」ことになるので、現状についても問題は発生しません。現在の政府の憲法解釈もまた、基本的にはこの路線に乗っとったものです。ただし、民間企業にたいして助成金を出すような状況は、憲法成立当時には明らかに想定されていなかったものであるため、この状況が合憲かどうかということについては、依然として論点になりうるといえます。ここでは、そのような立場にもとづき議論しています。]
 
 
 
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