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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

1215年、中世のロンドン ー憲法の源流へ

 
廷吏はこののち、自らの主張のみに基づいて、この目的のために召喚される信頼のおける証人なしには、何ものをも裁判にかけてはならない。
 
 今日は視野を世界にまで広げて、私たちの日本国憲法の源流のひとつをさぐってみることにしましょう。「個人を国から守るもの、あるいは国の力を制限する憲法」という考え方のことを、ここでかりにマグナ・カルタ憲法観と呼ぶことにするならば、こうしたものの見方は、人類の歴史の流れに深く根ざしたものであるということがわかってきます。
 
 
 かの有名なイギリスの名誉革命や、フランス革命の人権宣言、アメリカの合衆国憲法制定といった出来事は、こうした路線に沿う世界史の流れがついに目立ったかたちで表に現れはじめたという意味で、画期的なものでした。これらの出来事の特徴は、ジェームズ2世、ルイ16世宗主国であるイギリスといったように、国や国王にたいして断固として抵抗した人びとによって達成されたというところにあります。立憲主義の考え方は、こうした激しい闘いののちに、はじめて近代国家のフォーマットとして定着していったというわけです。
 
 
 けれども、このようにして近代の歴史の表に出てくるようになるはるか前から、これにつながるような動きは、すでに世界史のなかで起こっていました。僕がここでマグナ・カルタ的という言葉を用いるのも、13世紀のイギリスで制定されたこの「大憲章」(それが、ラテン語におけるマグナ・カルタという語の意味です)こそが、憲法についての今の私たちの考え方の起源を示してくれる例としてはぴったりのものだと思うからです。
 
 
 この憲章は、今からちょうど800年前に、フランスとの戦争に負けることによって力を落としていたジョン王が、貴族たちの要求を受けいれて、自らの権力を制限することを文書のうえで認めるというかたちで作られました。ジョン王は、土地をあまりにも多く失ったことで、「失地王」という、本人にとってはありがたくないあだ名をもらった国王です。ロンドン中はこのとき、「ジョン王よ、国王をやめろ!という要求に沸きたったそうです。しかし、へまを重ねに重ねたすえにかろうじて王の地位を守ることのできたジョン王は、マグナ・カルタを認めたことにより、世界史のなかに自分の名前を残すことになりました。
 
 
マグナ・カルタn
 
 
 この憲章には、国王でさえもコモン・ローには従わなければならないというということを文字のうえで確認するという、画期的な意義がありました。実はこのマグナ・カルタも、中世という時代の流れのなかでしだいにその存在を忘れられてゆくことにはなるのですが、それでも、のちの立憲主義思想のプロトタイプといいうるようなものとして重要なものであることには変わりありません。800年といえば、日本でいえば中世の鎌倉時代にまでさかのぼるといえます。思想の歴史は人間のスケールをはるかに超えたところで進んでゆくのだということを思い知らされます。
 
 
 マグナ・カルタ的な憲法観のうちには、近代国家の成立にまでつながってゆく、人類の歴史の記憶が映しだされている。第11条の条文において「侵すことのできない永久の権利」を謳いあげている私たちの日本国憲法もまた、この大きな流れにつらなるところで、初めて成立することのできたものです。よい憲法のかたちを知るためには、今まで人類がたどってきた道のりのことも視野に入れておく必要があるということになるのかもしれません。
 
 
 マグナ・カルタ憲法観は、現在の憲法学のなかでは、きわめてスタンダードなものの見方です。その理由はといえば、私たちがいま見てきたように、この憲法観は、人類が体験してきた長い闘いのプロセスによって支えられているからです。これは、現在のものの見方のなかに、過去の歴史が今でも息づいている例であるということができるでしょう。
 
 
 ところが、今の私たちが置かれている状況は、おそらくこの憲法観から、さらにその先へ一歩を進めてみてもよいところにあります。これまでの憲法学の伝統にはあくまでも敬意を払いつつ、哲学の力を借りながら、思いきって今いる地点からジャンプすることを試みてみたい。憲法について新たな視点から眺めてみることによって、この国の将来のあり方についても明るい希望をもつための手がかりを見いだすことはできないだろうか。私たちのいる21世紀初頭の状況を確認しつつ、もう一度憲法について原理的なところから考えてみることにしましょう。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
 
 <憲法第11条についての補注>
 
 ちょっと突拍子もない考えなので本文に組みいれることは断念しましたが、ここで、哲学的な想像力を羽ばたかせてみることを許してください。「侵すことのできない永久の権利」という第11条の表現の英訳は、eternal and inviolate rightsとなっています。この表現を見ていたときに、僕はここで用いられている言葉が、さまざまな宗教が私たちに教えていることとぴったり重なることに気づかされて、驚かざるをえませんでした。
 
 たとえば、仏教の教えは、私たちに次のように言っています。心は、何ものによってもさまたげられず、永遠に変わることがない。まさしく、eternal and inviolateという表現がそのまま当てはまるような教えです。そして、僕には、このことのうちにはたんなる偶然の一致よりも多くのものが含まれているように思えるのです。
 
 憲法のなかには、近代をはるかに超えるような不変の真理が息づいているのではないか。実は、この点については日本国憲法の前文自身も、この憲法は「人類普遍の原理」にもとづくものである、と言っています。たんなる法律ではなく、永遠真理の実現としての憲法。近代という時代が遠ざかりつつある今だからこそ、憲法を人類の知恵の巨大なアーカイヴのなかに置きなおして考えてみる必要があるのかもしれません。
 
 (なお、本文のなかで扱った歴史については、本来はイングランドとイギリスとを明確に区別しなければなりませんが、記述を簡潔にするために「イギリス」で統一しました。)
 
 
 

(Photo from Tumblr)