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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

日常を愛する人たちが、考えはじめるとき   ー日本国憲法と私たち

 
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって・・・
 
 
 「日本国民は、みずからが掲げた崇高な理想を深く自覚する。そして、国際社会のなかで名誉ある地位を占めたいと思う。」私たちがこのシリーズのはじめにも見たとおり、日本国憲法の前文には、これでもかというくらいに立派な文章が書きつらねてあります。
 
 
 この国のなかで生活している、日常を愛する人たち(昨日も書きましたが、このブログを書いている僕もその一人です)は、ここで戸惑ってしまいます。この前文ははたして、本当に自分たちのことについて書いてあるのだろうか。
 
 
 この人たちは、身近なところにたいする思いやりには、けっして欠くことのない人たちです。こういう気質を持っている人がたくさんいるということは、私たちの国にとって、きっとよいものをもたらしているはずだと思います。
 
 
 けれども、この人たちは、何か問題が起きたときに、あの大人びたヨーロッパの人たちのように理性を使ってものごとを解決してゆくことが、それほど得意ではありません。ことが政治的な問題や国際問題などになると、思考がまったく追いつかなくなってしまうこともある。とくに、憲法のように抽象的で大それた話題になってしまうと、もう事態にたいして見て見ぬふりを決めこむということになってしまいかねません。でも、日常を愛する人たちがそうしたくなるという気持ちも、とてもよくわかる。というよりも、僕自身がそうしてしまいがちなので、よくわかるどころではないというのが本音です。逃げていてばかりではいけないということは、わかっているのですが……
 
 
 この人たちは、次のようにつぶやくこともあるかもしれません。「大きな問題について考えることは、なんだか恐いし、想像もできない。自分ではなく、ほかの誰かが代わりに考えてくれるのではないか。きっと、偉い人たちが何とかするはずだ。彼らがすることにはなにも文句を言わないかわりに、考えないままでいることを許してもらえないだろうか。」
 
 
 日本国憲法
 
 
 でも、日本国憲法はそんなとき、この人たちに向かって、次のように言うことでしょう。
 
 
 「そうではない。あなたたちが生きている国は、いざという時には一人一人が国の未来のことを一生懸命になって考えなければ、けっして立ちゆかない国なのだ。言わなければならないときに『これは違うと思う』とはっきり言わなければ、たとえ国がとんでもなく間違った方向に進んでしまったとしても、後になってから文句を言うことはできないのだよ。
 
 
 なぜそんな重い責任を引き受けなければならないんだと言いたくなるかもしれない。けれども、わたしは知っている。あなたたちには、確かに弱いところもあるかもしれないけれども、自分を取りまく日々の生活を、とても愛している。いざという時には、あなたたちが自分自身の未来を誰かほかの人間に任せたりなどしないことを、わたしはよく知っているつもりだ。それでももし不安だというなら、わたしのことを読んでみなさい。自分で言うのもなんだが、立派すぎて嘘のようにもみえる言葉が、あなたたちを支えてくれることだろう。あなたたちは、自分で思っているよりもはるかに多く、理想を深く愛する性質をもって生まれてきたのだから。」
 
 
 国の最も大切な法律である憲法は、ただたんに守ってゆかなければならないものではない。それはまず何よりも、私たちにプライベートの領域を踏みだして生きてゆくための勇気を与えてくれるものでもある。日本国憲法の前文のうちには、ヘーゲル憲法観というイデーが指し示そうとしているベクトルが、まごうかたなく宿っています。望むときにはいつでもこの力に触れることができるというのは、私たちにとっても決して小さなことではないと思います。
 
 
 日本国憲法
 
 
 目下の問題がどういう結果を迎えることになるのかは、まだ誰にもわかりません。けれども、日本国憲法をめぐる議論が、これから後にはどんどん活発になってゆくだろうということだけは、ほぼ間違いのないことだと思います。注意しなければならないのは、憲法のような問題の場合には、今すぐに何が起こるか、当座のところは大丈夫なのかということを考えるだけではなく、数十年、あるいは百年以上先のことまで考えに入れておかなければならないということです。それだけ先のことを予測できるという人など、おそらく一人もいないのかもしれませんが、それでも、できる限りのことはやっておく必要がある。
 
 
 けれども、いたずらに暗くなってばかりいる必要もないと思います。子供やまわりの人たちのことを考えたとき、日常を愛する人たちは、もう見て見ぬふりをすることをやめて、ついに考えはじめるのではないでしょうか。その時、この人たちの生き方は、「崇高な理想を深く自覚する」というあの前文の言葉が示している姿に、すこしずつ近づきはじめます。日常を愛する人たちがパブリックな問題について少しずつ声をあげはじめたとき、この国の状況は大きく変わるでしょう。自分たちの手で国を作りあげてゆくという、前には途方もない重荷であるように見えていた課題も、次第にやりがいのあることに感じられるようになってくるはずです。
 
 
 ここ数回の記事では、ヘーゲル憲法観というイデーがかかわる問題圏をさぐってみることで、憲法のうちに宿っている創造的なパワーを取りだそうと試みてきました。そのことが果たしてうまくいったかどうかということについては、とても心もとないのですが、読んでくださった方が考えを進めてゆくためのヒントに少しでもなったとするなら、これにまさる喜びはありません。マグナ・カルタ憲法観からヘーゲル憲法観へという移行について考えてみた私たちの探求も、これで終わりになります。次回は、最後にまだ論じていなかった点にあと一回で触れることで、憲法についてのこのシリーズに、とりあえずひと区切りをつけることにさせてください。
 
 
 
 
 
 
  [ここ数回の記事では、ヘーゲル憲法観によって開かれるヴィジョンを思い描いてみることを優先したために、歴史の流れという観点からこのイデーを検討してみるということについては、ほとんど行うことができませんでした。この点については、いずれ後に補足するというかたちを取らせていただきたいと思います。]
 
 
 
 (Photo from Tumblr)