イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

戦力をまったく持たないはずの国   ー9条の条文を読んでみる

 まずは、9条の条文を見てみることにしましょう。この条文は、二項に分かれています。
 
 
① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 
 
 国家の政策として戦争を行うことはしない。この1項もとても大切なものではありますが、実はこの規定だけなら、フランス、ドイツ、イタリアなどのヨーロッパ諸国にも見られるものです。9条を9条たらしめているのはむしろ、次の2項のほうであると言われています。
 
 
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 
 
 これはすごい。法律にまったく詳しくなくても、一見しただけで、この規定がとてつもないものであることがわかります。この条文を素直に読むならば、私たちの国は、およそ戦力をまったく持たないことになる。たとえ周辺の国から攻められるとしても、自分たちは、あくまでも丸腰の姿勢を貫くのだ。軍備そのものの完全な放棄です。9条が人類史のなかでも未曾有のものであるというのも、確かにうなずけます。
 
 
 9条
 
 
 けれども、ここで私たちの国に生きる誰もが、すぐに思いなおすことでしょう。「そんなことを言っても、自衛隊があるじゃないか。」たしかに、艦隊もあれば戦闘機もあるし、自衛隊の装備といえば世界でもトップレベルのものであることは、とてもよく知られています。陸海空それぞれの自衛隊のホームページを見てみると、これでもかというくらいのハイテク軍事技術がずらりと並んでいます。これはさすがに、どこからどう見ても戦力であるとしか思えません!
 
 
  「いや、自衛隊はあくまでも自衛のためだから、OKなのだ。」けれども、9条の2項には、日本国民は戦力を保持しないと書いてありました。常識からいうならば、いくら平和を目指すとはいっても自衛くらいはしてもいいのではないかという気もしますが、2項には戦力を持たないと書いてあるわけですから、憲法から言えばやはりおかしい。自衛隊がある今の状況は、違憲状態そのものなのではないか。
  
 
 実は、日本国憲法の当初の理解からすれば、こうした考え方が憲法のスタンダードな解釈になっていました。1946年6月28日の衆議院本会議で、吉田茂首相は次のように発言しています。「国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせらるるやうであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思ふのであります……」つまり、憲法にしたがうならば、この国は自衛のための戦争さえも行わないということです。なんと、集団的自衛権どころか個別的自衛権すら持っていないというのが、当初の解釈でした。
 
 
 僕は、9条の問題を考えてゆくときの、最初の重要なポイントはここにあると考えています。私たちは自衛隊が存在している今の状態を当たり前のものとして受けいれていますが、9条について考えるときにはつねに、「自衛のためであれ、いっさいの戦力は持たないことになっていた」ということを思い返す必要があるのではないか。哲学は、法律を理解するためには、最初にそれが作られたときの理念にまでさかのぼる必要があると教えていますが、この場合にもそれが当てはまるのではないかと思います。
 
 
 それでは、自衛隊は、どのような立ち位置にあるのでしょう。日本国憲法が作られてからこれまでのあいだに、いったい何が起こったのでしょうか。すべてのプロセスを追うことはできませんが、ここでは、事のなりゆきを象徴する人物に登場してもらうことにしましょう。舞台は1946年、衆議院憲法改正案特別委員会にさかのぼります。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
 〈主要参考文献〉
樋口陽一憲法と国家 ー同時代を問うー』 岩波新書、1999年
    『いま、憲法は「時代遅れ」か』 平凡社、2011年
 
 
 
(Photo from Tumblr)