イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

ワンフレーズで憲法を変える   ー9条2項と芦田修正

 1946年の3月には、国民たちはすでに日本国憲法の大まかなプランを知らされており、新しい憲法にむけての期待を高めていました。そののち正式に提出された憲法案は、明治憲法のもとでの選挙によって選ばれた議員たちによる衆議院の審議において、検討されることになります。今回の主題となるのは、同じ年の7月25日から8月20日にかけて行われた、憲法改正案特別委員会での出来事です。
 
 
 この委員会で委員長をつとめた芦田均は、9条の条文にたいしてある修正を加えました。その修正は、その時には大きな議論を引きおこすことはありませんでしたが、1952年になってから芦田は、この修正はまさにこの国の根幹にかかわるものであったのだと主張しはじめます。
 
 
 「あまりはっきり言うと通らないだろうから工夫したのだが、私が行ったこの修正によって、日本は戦力を持てるようになったのだ。」政治と法律はつねに、スリリングな形で絡みあう。芦田修正と呼ばれるこの改変は、戦後70年の歴史の流れを考えてゆくうえでも極めて印象ぶかい出来事です。今から、その中身を見てみることにしましょう。
 
 
芦田修正
 
 
 当初の案は、次のようなものでした。
 
 
第九条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。 陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。
 
 
 芦田均が修正をくわえた後の条文は、私たちもすでに見たように、以下のようになっています。
 
 
① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 
 
 一見すると、表現がところどころ変わっているだけで、ほとんど元のものと変わっていないように見えます。けれども、法律の問題においては、ささいなものに見えるフレーズのもとで解釈をめぐる熾烈な闘いが行われるというのは、古今東西、変わることがないようです。ここで重要になってくるのは、芦田がつけ加えた、「前項の目的を達するため」という表現です。
 
 
 芦田は、次のように言います。2項にはたしかに、戦力を放棄すると書いてある。しかしそれはあくまでも、「前項の目的を達するため」に、つまり、国際紛争を解決するための手段として放棄するのだ。2項は、自衛の目的のための戦力まで放棄しているわけではない。したがって、日本は無条件に武力を捨てるのではないのだと、芦田は主張したのです。
 
 
 このことを身近な例にたとえて言うならば、次のようにでもなるでしょうか。「私は健康な生活を送るために、これからお酒は飲みません。」しかし、そう言っていたはずのあなたがなぜ、いま目の前でウイスキーをおいしそうに飲んでいるのか。「いやいや、あれはあくまでも、『健康な生活を送るために』お酒は飲まないと言ったのである。いま私は、『楽しむために』ウイスキーを飲んでいるのだよ!」
 
 
 なるほど、たしかにそう言えなくもないかもしれませんが、何かが違うような気もします。でも、そういう解釈ができる余地があるのは確かだと言われると、こちらも言葉につまってしまいそうです。果たしてこういう場合には、ウイスキーを飲むのは正しいのでしょうか?そして、武力を持つことは…?
 
 
 この芦田修正に共鳴するような形で、憲法の解釈を変えていった憲法学者もいました。佐々木惣一という学者は、1949年の『日本国憲法論』では、9条は武力を無条件に放棄するものであると述べていましたが、1952年の『改訂日本国憲法論』においては、防衛のための戦力は認めうると主張するようになります。
 
 
 芦田修正や佐々木惣一のような立場はその後、そのままの形で受けつがれることはありませんでした。けれども、無条件で武力を放棄することを謳っていたはずの9条が、もともとの形とは違うかたちで解釈されてゆくことの先駆けになったという意味では、芦田均が主張したことは象徴的な意味を持っています。条文を変えずに解釈を変えることで、事態に対応してゆこう。政府の9条にたいする解釈はこののち、時代とともに次々と変わってゆくことになります。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
〈主要参考文献〉
長谷川正安 『憲法現代史(上) 占領と憲法日本評論社、1981年
 
 
 
(Photo from Tumblr)