イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

実際のところ、どう解釈されてきたのか?   ー9条と自衛隊

 「憲法からは外れているみたいだけれど、自衛隊って、とりあえずできちゃったんでしょう」。私たちはみなそのことについて、多かれ少なかれ知っています。それでは、私たちの国の政府はこの自衛隊なるものを、日本国憲法第9条2項との関係において、いったいどのように解釈してきたのでしょうか?今日は、その歴史を大まかにたどってみることにしましょう。
 
 
 まずは、自衛権について確認しておくことにします。1946年6月28日時点では、吉田茂首相は、「この憲法自衛権も否定している」との立場を取っていました(!)。しかし、1951年10月18日衆議院では、彼は以前の発言をくつがえすような形で、「自衛権を否認したというような非常識なことはないと思います」と主張することになります。もちろん、自衛戦争もOKである。やりたくはないが、いざという時にはいたし方ないのである。
 
 
 それよりも頭が痛かったのは、自衛隊の問題でした(その当時は警察予備隊、のちに保安隊)。9条の2項は「戦力を保持しない」と明確に言っていますが、現実としては、戦力としか呼びようのないものがすでに存在している。この矛盾をめぐって、苦しいなかで条文を解釈しようとする努力が、現在までつづくことになります。ここでは、話をわかりやすくするために、便宜上、いくつかの段階に分けて歴史をたどってみることにしましょう。
 
 
9条と自衛隊
 
 
 
〈フェーズ0〉 戦力を持つことは可能なのだと言いきってしまう
 
 侵略のための戦力は持ってはならないが、自衛のための戦力ならば持っていいのだ。すでに見たように、芦田修正はこのように主張していました。前回すでに見ましたが、「『健康のために』ウイスキーを飲むのはよくないが『楽しむために』ウイスキーを飲むのはいいのだ」という、あのロジックです。
 
 
 この理論は、実情によく合っていました。「なんだかんだ言っても、もう実際には戦力を持ってるんだもの。どうしようもないよ。」けれども、さすがに戦力と言いきってしまうのがはばかられためか、政府もこの見方を採用しませんでしたし、憲法学者のなかでこの理論を主張したのも、佐々木惣一という人の他にはほとんどいませんでした。
 
 
 
〈フェーズ1〉 呼び方を変える
 
 1952年11月に吉田首相は、保安隊について次のような主張を行いました。あれは、「戦力」ではない。戦力とは、近代戦を闘うことのできるものをいう。保安隊は近代戦を闘うことができないから、戦力ではなく「実力」なのだ。保安隊は防衛を任務とする、わが国の実力である。
 
 
 ウイスキーを飲んでいる人の例でいうなら、こうなります。「『お酒は飲まない』と、私はたしかに言った。しかしだね、お酒というのは、少なくともアルコール3%くらいでないと、そう呼べないのではないかね。ところで、私が飲んでいるウイスキーは水割りだ。それも、たくさん水を入れて、うすーくうすーくしてあるから、もちろん度数は3%以下で、もうお酒とは呼べんのだ!」なるほど、それで飲んでいるというわけですか。そう言われればそういう気もしてこなくはないですが、しかし……
 
 
 
〈フェーズ2〉 呼び方の意味を変える
 
 そののち、自衛隊はますます強大なものになり、近代戦を闘いぬけるほどたくましいものに成長してゆきました。こうなってくると、今の解釈のままではさすがにまずいということになってきます。そこで、1972年11月に、田中角栄内閣は次のように定義を変えました。戦力とは、「自衛のために必要な最少限度を超えるもの」である。わが国の自衛隊はその最少限度にとどまっているのだから、戦力ではなく「実力」である。なにも問題はない。
 
 
 あの、お酒の量がだいぶ進んでいるようですが…「なんだね君は。あのね、お酒を飲むというのは、健康を害するくらいに飲むのをそう言うんだよ。ほら、『あの人は酒飲みだ』っていうのは、飲みすぎの人についてしか言わんだろう。言っておくが、私はたしかにウイスキーは飲んでいるが、分量についてはわきまえている。濃い?そりゃ濃いよ。ロックだよ。だが、私は限度を超えて飲んではいないつもりだ。」
 
 
 
〈フェーズ3〉 もはや呼び方にすらこだわらない
 
 1987年度以降の自衛隊は、それより以前に設定されていた、軍事予算をGNPの1%以内にとどめるという基準をも破り、世界でもトップレベルの「実力」にまで成長をとげてゆきます。その途中の1991年11月には、「日本では軍隊ではないが海外では軍隊である」という、もはや何を意味しているのかさえもよくわからないロジックまで登場しますが、事態が一定のピークを迎えたのは、2002年5月でした。
 
 
 このとき、小泉総理は衆議院において、次のように言いました。「いまだに自衛隊について、解釈の点において、一切の戦力は保持してはならないということを言っていますけれども、果たして自衛隊が戦力ではないと国民は思っているでしょうか。しかし、法律上の問題でこれは戦力じゃないと規定しているのであって、一般国民は、多くの国民は自衛隊は戦力だと思っているのは、常識的に考えてそうだと思いますね」。小泉首相の発言は、誰もが思っていたことをついに公的な場で言ってしまったという意味では、重要なものでした。
 
 
 「飲んでる?いや、そりゃ飲んでるよ。逆に私が飲んでないと思うのかね、君は。もうみんな、私が酒を飲んでいることなんて知っているじゃないか。今さら何を言うんだね君は!」つ、ついにここまで来たのか!しかし、見方を変えれば、このことはいつかは誰かが言わなければならないことだったとも言えます。
 
 
 
9条と自衛隊
 
 
 前回と今回で見たように、9条の条文については、その意味が当初の内容からつねに逸脱しつづけゆくというプロセスが、戦後70年間のあいだ、ずっと続いてきたといえます。このプロセスが逆向きになることは、ほとんどなかったといっていい。9条2項の規定に実情を合わせるというよりも、実情に9条2項を当てはめてゆくことが、たえずくり返されてきました。
 
 
 けれども、このことについて、時の政権や特定の人間を非難するというだけでは事態は解決しないというのも確かです。もちろん、必要な時にはそうするべきだとは思いますが、9条2項をめぐるこの問題については、正直に言って、私たち自身にもやましいところがないとも言いきれないかもしれません。ここには、「この国を守るためには自衛隊くらいはしょうがない」という実情のレベルを超えて、「9条のことをどう考えたらいいのだろうか」という疑問にたいして、国民としてしっかりとした答えを出してこなかったという事情もあるように思います。もちろん、その点についてつねに考えつづけてきた方もこの国の中にたくさんいることもまた、事実なのですが……
 
 
 遅いかもしれないけれど、いつでも遅すぎるということはない。このブログでも、9条の将来について、これから腰を据えて考えてみることにしたいと思います!しかし、その前に、自衛隊のこれまでの事情についても、もう少し詳しく見ておく必要があるようです。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
〈主要参考文献〉
池上彰 『憲法はむずかしくない』ちくまプリマー新書、2005年
 
 
 
 
 
[昨日の記事で紹介させていただいた芦田修正については、一部、説明の足りない部分がありました。もし気になるという方がいらっしゃいましたら、お手数なのですが、昨日の記事のコメント欄をご参照ください。申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。]
 
 
 
(Photo from Tumblr)