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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

世界史のなかの自衛隊

 私たちは前回、9条との関係において自衛隊がどう解釈されてきたのかを見ました。「自衛隊は戦力ではなく、わが国の実力なのである。」それでは、この「実力」はこれまで、一体どのような歴史をたどってきたのでしょうか。ここでは、自由民主党石破茂氏が防衛庁長官時代に主張した「存在する自衛隊」から「機能する自衛隊」へという言葉にしたがうかたちで、自衛隊の歩みを眺めてみることにしましょう。
 
 
 
1.創設から冷戦終了まで     「存在する自衛隊」の時代
 
 
 朝鮮戦争の影響により1950年から発足することになった警察予備隊は、規模の拡大のプロセスをたどりつつ、保安隊といちど名を変えたのちに、現在の自衛隊となります。そして、防衛庁とセットになっているこの自衛隊も、予算とスケールをどんどん大きくして、その後もますます巨大な力になってゆきました。しかし、意外なことに、冷戦時代の自衛隊は必ずしも実戦に特化された組織ではなかったそうです。
 
 
 当時の自衛隊は、ソ連を仮想敵国にしていました。戦争状態に突入した場合には、核兵器を搭載したミサイルを備えるソ連原子力潜水艦が、ウラジオストックから太平洋をめざして進出してくることが予想される。中曽根首相は、宗谷津軽対馬の三海峡を封鎖してしまうならば、ソ連側の行動を大きく抑えこむことができるだろうと考えました。逆を言うならば、ソ連はこの三海峡を確保するためにも、日本に上陸侵攻してくる可能性が高いということになります。
 
 
 このシミュレーションが合っているかどうかは別にするにしても、自衛隊にとって重要だったのは、「日本列島に攻めこむことは極めて難しい」という見た目を演出することでした。プレゼンスを見せつけることによって抑止力として機能することこそが求められていたのであって、「存在する自衛隊」という呼称はここから来ています。当時のことを知る防衛庁幹部の一人は、次のように言ったそうです。「自衛隊は強そうに見えることこそが重要だった。本当に強い自衛隊である必要はなかったのです」(半田滋『闘えない軍隊』より。なお、2007年からは防衛省)。
 
 
 戦闘正面の人員は多いのに、戦争の継続には必要な後方支援の隊員が少ないため、補給ラインが十分に確保できない。海上自衛隊航空自衛隊との連携が、ほとんど考えられていない。こうした特徴についても、とにかく仮想敵の目から見て「存在する」ことが目的だったのだと言われれば、かなりの部分まで理解できるものになってきます。冷戦下であるのに実戦的ではなかったというのが、興味深いところです。
 
 
自衛隊
 
 
 
2.冷戦後から現在まで 「機能する自衛隊」の時代
 
 
 冷戦が終わった時点で、仮想敵のソ連の脅威は消えました。このとき、自衛隊には規模を縮小するか、少なくともそのままに保ってゆくという選択肢も、理論上はありえたはずでした。けれども自衛隊は、その後もますます拡大の一途をたどってゆくことになります。それは、一つには以前とは異なり、海外に進出してゆくようになったからです。
 
 
 グローバリゼーションのプロセスを進行させている21世紀初頭現在の地球は、国家を超えた組織の連携などをとおして、広範な地域において治安と安定を回復するシステムを、惑星規模で打ち立てつつあります。哲学者のアントニオ・ネグリマイケル・ハートの議論などを念頭に置きつつ、ここではこの仕組みのことを、「グローバル安全保障システム」と呼んでみることにしましょう。
 
 
 僕は、集団安全保障という軍事・外交上の側面も含めつつ、自然災害にたいする国際緊急援助活動などもそこに加えて、地球上の秩序を回復する機能をまとめて捉えるために、この用語を用いてみたいと考えています。ユーゴスラヴィア紛争やイスラム国への対応などといった例を考えてみると、グローバル安全保障システムの機能のうちには戦闘行為も含まれることになるので、その評価については必然的に両義的なものにならざるをえません。けれども、自然災害にたいする救助活動や人道支援といった視点からみるならば、この事態のうちにはポジティヴな要素も含まれてくるということは確かです。
 
 
 たくさんの反対はありましたが、私たちの国の自衛隊も、あくまでも武力行使は行わないという条件のもとで、このグローバル安全保障システムに加わることになりました。1991年の湾岸戦争後のペルシャ湾機雷掃海をはじめとして、カンボジアルワンダへといったように、自衛隊は世界中のさまざまな国で活動するようになってゆきます。自然災害の面からいえば、スマトラ沖やネパールにおける大地震にさいして出動したことも、記憶に新しいところです。
 
 
 自衛隊をめぐる問題には、「第二次世界大戦につづく冷戦の時代を超えて、人類は21世紀の地球をどのように統治してゆくのか」という、より大きな問題もかかわってきています。自然災害や地域紛争にたいして各国が協力してゆくグローバル安全保障システムははたして、平和と秩序の守り手になりうるのでしょうか。それとも、人道的な介入の名のもとに、非人道的な暴力に手を染めてしまう運命をたどってしまうのでしょうか。いまの歴史の流れは、この二つの極のあいだを揺れうごきながら、自らが進んでゆく道を必死に模索しているようにみえます。私たちは自衛隊を海外に送りだすことで、すでに少なくとも部分的には、この惑星規模の活動に参加してしまっている。この流れにたいして自衛隊がどう関わってゆくのかという問いは、地球のどんな場所においても人びとが平和な日常を送ることのできる世界を目指してゆくさいには、きわめて大切なものになってくるのではないでしょうか。
 
 
 ともあれ、冷戦ののちには、自衛隊をもはや抑止力として存在させるだけにとどめずに、じっさいに現地で役立つものへとカスタマイズしてゆこうという方向が打ち出されるようになってきます。まさしく、「存在する自衛隊から機能する自衛隊へ」というわけです。けれども、このことのうちには、ある原理的な困難がはらまれてもいる。憲法9条との関連からいうと、この時期以降の自衛隊の活動がより重要なものになってきます。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
〈主要参考文献〉
半田滋 『闘えない軍隊 肥大化する自衛隊の苦悶』講談社+α新書、2005年
 
 
 
(Photo from Tumblr)