イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

マキャヴェリズムから国家理性へ   ー私たちの国家の系譜をたどる

 
 私たちはまず、9条の条文を簡潔に眺めてみたあとで、その文言の解釈がたどってきた歴史と、これまでの自衛隊の活動の歴史の流れを検討してみました。そこから見えてきたのは、9条のなかにもともと宿っていたイデーが、ほとんどその当初から現実にたいする妥協を行うことを余儀なくされつづけてきたという事実です。これから、このことの意味について哲学の立場から考えてみたいと思います。
 
 
 9条のような条文がこれまでずっと当初の意味から逸れつづけてきたことのうちには、歴史的にみても深い必然性があるといえるのではないか。ここでは、これまでの事態を次のような言葉で言い表してみることにしましょう。「日本国憲法第9条は、国家の奥深くにセットされた絶対平和のアノマリーであるが、近代以降の政治を突きうごかしている国家理性にまっこうから反している。したがって、国家理性はノーマライゼーションのプロセスを施しつづけるというかたちで、このアノマリーを無効化する方向へと進みつづけてきた。」
 
 
 これから、この表現が意味するところを掘りさげてゆきたいと思いますが、今回の記事では、20世紀ドイツの歴史家であるフリードリヒ・マイネッケの研究などを念頭に置きながら、国家理性というタームについて見てみることにします。ちなみに、この語自体はマイネッケが取りあげる以前から存在していましたが、彼が1924年に出版した『近代史における国家理性の理念』という著作によって、広く知られるものになりました。
 
 
 この言葉のそもそもの出生地は、ルネサンス期のイタリアです。当時のイタリアは、今のようにひとつの国に統一されてはおらず、小さな国家が並びたって、激しい抗争をつづけていました。そこにフランスという外敵の侵入も加わるといった事情もつけ加わって、イタリア中が血みどろの闘争につねに脅かされるという状態が、長く続いていました。そうした中で、「国家は他のいかなるものを犠牲にしてでも、自らの利益を達成するよう努めてよいのだ」という考え方が、しだいにそれぞれの国において受けいれられてゆくことになります。
 
 
 この点については、15世紀から16世紀にかけて生きたニッコロ・マキャヴェッリという思想家が、とくに有名です。フィレンツェ共和国の外交官としての務めを果たしたこともある彼は、『政略論』という著作のなかで、次のように言っています。国の命運がかかっているような場合には、その手段が正しいかどうか、残虐であるかどうかなどということは、いっさい考慮する必要はない。使えるかぎりのあらゆる手段を用いて、みずからの目的を達成するべきだ。この考え方こそ、のちに有名になったマキャヴェリズムの思想にほかなりません。
 
 
 マキャヴェッリのこうした言葉は、じつは彼自身の深い信念にもとづく思想から出てきたものだったのですが、現実の歴史のほうは、マキャヴェリズムという言葉がはらんでいる狡猾さのモメントが強調されるような形で進んでゆきました。そして、このプロセスはとくに、外交の分野において徹底的なかたちで進行することになります。こうしてヨーロッパは、500年以上にわたる冷酷な争いとともに育まれた、厳しいリアリズムにもとづく国際政治の伝統をもつことになりました。
 
 
 
国家理性 
(イメージは、マキャヴェッリと同じくフィレンツェの画家、サンドロ・ボッティチェッリの『春』)
 
 
 
 今から150年ほど前、欧米の国ぐにが鎖国をしていた私たちの国に本格的にやってきたとき、外交を担当することになった江戸幕府の役人たちは、彼らが体現しているマキャヴェリズムのすさまじさに度肝をぬかれることになりました。数百年の歴史の蓄積により当時の欧米人たちは、数えきれないほどの国際紛争をくぐり抜けて、エゴイスティックな外交のエキスパートへと成長をとげていたからです。「な、な、何なんだ、この外国人たちは。言ってることとやってることが、全然ちがう!変に優しかったかと思えば、突然やたら強硬に出てくるし。本心から言ってるのか嘘八百で言ってるのか、全然わからないし。どうしようもなく意地悪なことを要求してくるのに、お前たちのことは本当に大好きだって言ってるし。何なんだよこれ、どうすればいいんだ……」200年も鎖国していた人びとにとっては、いかんせん、相手が悪すぎました。当時の果てしない苦労がしのばれます。
 
 
 明治以降になると、私たちの先祖も、マキャヴェリズムの考え方にだいぶ慣れ親しんできましたが、外交下手な性格については、その後もあまり変わりませんでした。平沼騏一郎という首相などは、1939年に独ソ不可侵条約が締結されたさいに、「欧州情勢は複雑怪奇なり」という名言(?)を残したのちに、総辞職までしています。要するに、「わけのわからないヨーロッパなんてもうイヤだ!」と言って、すべてを投げだしてしまったというわけです。彼のとった態度は、さすがに少しだけ情けなく見えてしまうところもありますが、ヒトラースターリンくらいに底の知れない相手とこれから対等に渡りあってゆけと言われたときに、「ごめんなさい、ムリでした!」と言いたくなる気持ちは、同じ国に生きる人間としては、とてもよくわかります。
 
 
 9条をめぐる問題を考えてゆくさいにも、じつはこの同じ外交コンプレックスが付きまとってこざるをえないのかもしれません。「この条文のことを、海外にどう説明したらよいのだろう。」この点については、苦手なものはもう苦手ということである程度は納得してしまって、できる範囲で頑張ってゆけばいいのではないかという気もします。もちろん、外交に長けた練達の政治家もこの国の歴史のなかには確かに出てきていますので、過度に一般化する必要はないかもしれませんが……
 
 
 話がすこし逸れてしまいましたが、本題に戻ります。16世紀の半ばになると、国家理性を意味するragione di statioというイタリア語がはじめて歴史の上に現れてくるようですが、この語はそののちヨーロッパ中でそれぞれの言語に翻訳されて、広く使われるようになります。そして、この考え方は外交の分野のみならず、他のあらゆる領域のうちにも浸透してゆきました。私たちのものであるこの国もまた、国家理性の歴史が今の地点まで行きついたところに存在しているといえるのですが、次回はこのプロセスをもう少しだけたどってみたうえで、9条がいま置かれている状況について考えてみることにします。
 
 
 
(つづく)
 
 
 
(Photo from Tumblr)