イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

Aグループ?Bグループ?それとも……?   ー9条の弁護を開始する

 
 「私たち日本国民は、いっさいの戦力を放棄する。」今回のシリーズもここに至って、ようやく9条の側に立って語るときがやってきました。色々な変遷を経て、僕は、「この国はこれからも9条を守っていったほうがよいのではないか」という考えを持つようになりました。当初は、9条のスピリットを活かす形ならば改憲もありうると思っていたのですが、今の時点では、「この条文はそのまま残した方がよさそうだ」と考えています。これから先は、説得するためというよりも、考えるうえでのきっかけになればということで、9条の弁護を行ってみることにします。
 
 
 「9条を憲法のなかに、残すべきかどうか。」この問いかけへの反応は、主に3つのグループに分かれるように思います。今からそれぞれのグループについて、簡単に見ておくことにしましょう。
 
 
 
A. 平和を愛していて、心を優先する人たち
 
  Aグループの人たちは、9条の条文を聞いた瞬間に、「なんてすばらしい条文なんだ!」と感じる人たちです。そのため、この条文についても、「根本のところでは正しいのだから、もちろん守るべきだ」と考えます。戦争は正しくないし、問題を解決するために武力に頼るのも正しくない。だから、いっさいの武力は持つべきではない。
 
 
 はっきりしているのは、もしも世界に生きている人間がすべてAグループに属することになるとしたら、その瞬間に世界平和が訪れるということです。「すべての核兵器を破棄しよう。あらゆる軍隊をなくそう!」もちろん、このことの実現は現実の面からいえば絶望的なほどまでに難しいことは確かですが、それでも、それがずっと実現するように試みつづけることは、大きな意味のあることだと思います。人類の全員がAグループに入るときには、曇りひとつない真の平和が訪れます。あとは、それをその後も守ってゆくことができるなら、その平和は永遠のものになるに違いありません。
 
 
 もちろん、この人たちに対しては、9条についての弁護を行う必要はありません。それはまさしく、釈迦に説法ということになってしまいます!
 
 
 
B. 平和を愛していて、理性を優先する人たち
 
 別の考え方をする人たちもいます。この人たちは、「9条の理念は確かにすばらしいけれども、憲法の条文としてはふさわしくない」と考えます。理性的にものを考えるならば、武力を放棄するとしたら、国がやっていけるはずがない。
 
 
 もし9条をこれから先も守ってゆきたいと考えるならば、このBグループの人たちにたいしては、この条文の弁護を行う必要があるでしょう。ひょっとすると、9条の理念がいかにすばらしいものであるかを説明したときには、Bグループの人もAグループに移行するかもしれません。「そうか、今こそわかった。人間は、やはり武力なんて絶対に持つべきではないんだ。今から私も、9条を守る側に回ることにする!」もちろん、そうなれば弁護のプロセスは無事に完了ということになるでしょう。しかし、この可能性は、おそらくかなり低いのではないかと思います。
 
 
9条
 
 
 もちろん、Bグループの人たちも平和を望んでいます。しかし、Bグループの人たちにとっては、戦争をなくすために自分たちの国だけが武力を放棄するというのは、まったくのナンセンスでしかないように思えるのです。「そんなことをしても、戦争がなくなるわけがないではないか。相手にやられたらどうするんだ。」そうした疑問を持つことは、明らかに理にかなっているようにみえます。Aグループの人たちはその点について、一体どう考えているのでしょうか?
 
 
 この点は、よく考えるととてつもないことだと思うのですが、おそらくAグループの人は、そういう可能性についてはあまり深刻に考えていないのではないでしょうか。「そういう時にどうしたらいいのかはよくわからないけれど、とにかく、武力は放棄したほうがいい気がする。」実は、このように言えてしまうのがAグループの人たちの最も素晴らしいところなのですが、Bグループの人たちからすると、そんなことでなぜ納得できるのかが、さっぱりわかりません。「だって、攻められたらどうするんだ!」さらなる弁護が必要になってきますが、その前に、つぎのCグループについて見ておくことにします。
 
 
 
C. 平和を愛していない人たち
 
 残念ながら、人類のなかには、平和を愛していない人たちもいます。自分たちの利益のために、戦争を望んでいる人たち。憎んでいる相手を打ち倒すのは当然のことだと考えている人たち。そもそも、世界や人類そのものを愛していない人たち。もっと過激になると、世界や人類など滅んでしまえばいいと願っている人たち。さらには、「愛する」や「生きる」といった言葉のみならず、「存在する」という言葉すらも耐えがたい人たち。ここにはさまざまな人が含まれますが、はっきりしているのは、この人たちに対していきなり9条の弁護がうまくゆく可能性はまずないということです!9条を弁護するかどうかという以前に、この人たちをそのままにしておくのは危険な気もします。Cグループの人たちには、何はともあれ、まずはBグループに入ってもらう必要がありそうです。もちろん、思想の自由はいかなる場合にも認められるべきだとは思いますが……。こうした問題は目下の問いかけから離れてしまうので、またの機会に考えることにします。
 
 
 Aグループの人に対しては弁護の必要がないし、Cグループの人に対しては弁護の他にするべきことがある。したがって、もしも9条について弁護をおこなうとしたら、それはBグループの人に対してであるということになりそうです。これまでの記事の中で議論してきたことも材料として用いながら、さらに9条の弁護をつづけてみることにします。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
 
[今日、8月6日は、広島に原子爆弾が落とされてから、ちょうど70年になる日です。平和を望む人にとっては、9条を守ってゆくべきだと考えるにせよ、そうでないにせよ、もう同じことが繰り返されてほしくないと思う気持ちは変わらないと思います。地球のほかの地域についてもそうですが、この国がいつまでも平和な国であることを心から願います。]
 
 
 
(Photo from Tumblr)