イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

少女たちをたたえて   ーハンバート・ハンバートのニンフェット理論

 
 「私の芸術は、ひょっとすると、洗練されたかたちでの性的な欲望の追求にすぎないのではないか。」たとえそうした疑いがきざしてくることがあったとしても、芸術家はふつう、自らが創りあげた作品の美によって、その疑いを上品に覆い隠してしまおうとします。けれども、その一方では、本質的な芸術家であればあるほど、天上のイデアが地下のリビドーと切りはなしがたいものであることにたいして自覚的にならざるをえないという事情もあるように思います。
 
 
 『ロリータ』を書いたウラジーミル・ナボコフは、あの谷崎潤一郎と同じように、芸術の美を誰よりも深く愛しているにもかかわらず、文学の至福と性的な喜びの判別不可能性についての問いを投げかけつづけた人でした。『ロリータ』の冒頭でくり広げられる、悪魔的な少女「ニンフェット」についての理論は、この問題を最も先鋭なかたちで問いかけた試みの一つです。愉快犯の挑発に乗ってしまうようで少し複雑な気分ですが、ハンバート・ハンバートの紙上における演説に、すこし耳を傾けてみることにしましょう。
 
 
 
 「さて今から、次のような理論を紹介したい。九歳から十四歳までの範囲で、その二倍も何倍も年上の魅せられた旅人に対してのみ、人間ではなくニンフの(すなわち悪魔の)本性を現すような乙女が発生する。そしてこの選ばれた生物を、「ニンフェット」と呼ぶことを私は提案したいのである。」
 
 
 
 ハンバート・ハンバートによると、女性的なものの悪魔的な魅惑が最も大きな猛威をふるうのは、その女の子がまだ年端もいかない少女である時期にかぎられるのだそうです。「この世のものとは思えぬ優雅さ、つかみどころがなく、変幻自在で、魂を粉砕してしまうほどの邪悪な魅力」。ハンバート・ハンバートは、同年代の女性たちと通常の性交渉(本人の弁によるならば、「世界を揺り動かすあのお決まりの往復運動」)を持つ一方で、心の底では、こうした魅力を身につけているニンフェットたちに対してしか欲望を抱くことができません。
 
 
 ハンバート・ハンバートの妻が再婚前に産んだ娘であるロリータは、彼にとってのニンフェットそのものです。彼女と性的な関係をもつことは、年齢だけではなく家族関係という面からみても倫理に反しているといえますが、彼女から発される悪魔的な魅力に完全に飲みこまれたハンバートは、さまざまな過程を経て、彼女との肉体関係のうちに次第にのめりこんでゆきます。そして、この思春期の少女のほうもまた、少なくとも最初のうちは、性の目覚めと覚えたての快楽にたいして情熱を燃やしていないわけではないようです。ナボコフは、表立って描いていないぶん、かえって扇情的であるとさえ言えるようなきわどい描写を交えつつ、20世紀を代表するこの文学作品のプロットを進行させてゆきます。
 
 
 おそらくは、「悪魔的」という言葉がここでのキーワードであるといえるでしょう。通常の状態における愛の相手は、たんなる魅惑の対象でしかないようにみえます。けれども、ここで語られているニンフェット理論にしたがうなら、ロリータのようなニンフェットは、性的な欲望のうちに隠れている死の欲動をむき出しにさせずにはおかないほどの魅惑を備えています。性が死の次元につながっているというのは、大人になった私たちの誰もがうっすらと気づいていることですが、ニンフェットたちは、その点にかんする欺瞞をけっして許してくれません。死んでもいいなら、私の肉体を味わいたいだけ味わってもいいわよ。ハンバート・ハンバートは、この誘惑に抗うことができずに、ロリータの肉体と自らの破滅にむかって一直線に突きすすんでゆきます。
 
 
 
ニンフェット
 
 
 
 こうした性質を備えたニンフェットたちは、世間でいう美人の基準に合致するとはかぎりません。少女たちを愛するものは、いわゆる見た目のよさではなく、移ろいゆくものの中にかすかに閃く、悪魔的で永遠な美の輝きを見てとらなければならない。ハンバート・ハンバートは、現実の世界を超えたところで薔薇色の美が咲きみだれる、永遠のイデア界の存在を信じています。
 
 
 イデアを認識できるのは、人間のなかでも知恵の鍛錬を積んだ一部のものにすぎないように、ニンフェットたちを愛することができるのは、男性のなかでもほんの一握りの人びとにすぎない。ハンバート・ハンバートはこの点について、次のように言っています。
 
 
 
 「芸術家にして狂人、際限ないメランコリーの持ち主、下腹部には熱い毒が煮えたぎり、繊細な背骨にはとびきり淫猥な炎が永遠に燃えている(ああ、身をすくめて隠れていないと!)、そんな人間のみが[……]」
 
 
 
 繊細でありながら淫猥。高貴な魂の持ち主でありながら、筋金入りの倒錯者。こうした芸術家の中の芸術家のみが、あの悪魔的なニンフェットたちをそれとして認識することができるのだ。ハンバート・ハンバートは、誇らしげにそう宣言します。作者であるナボコフはここで、確信犯的なやり方で、『ロリータ』の主人公をきわめて傲慢なエリート主義者にしたてあげていると考えられます。その一方で、ここでは主人公による告白という形式を借りつつ、文学そのもののあり方が鋭く問われているということを忘れることはできません。
 
 
 ハンバート・ハンバートは引用した箇所の近くにおいて、ルネサンス期の文学史を参照することで、私たちのことを挑発してみせています。あのダンテを考えてみるがいい。ダンテが死ぬほどの恋に落ちた相手は、まだ九歳になったばかりのベアトリーチェちゃんだったではないか。そして、ペトラルカがあれほどに愛したラウラちゃんはどうだ。彼女はまごうかたなき、十二歳の金髪のニンフェットに他ならなかったではないか。
 
 
 この国に住んでいる私たちとしては、ここに、『源氏物語』をはじめとする平安文学の伝統をつけ加えることができるかもしれません。生涯をかけて少女たちのことを追い求めつづけた光源氏ははたして、ハンバート・ハンバートの先駆者なのでしょうか。彼がこよなく愛した紫の上は、黒髪のニンフェットであるということになってしまうのでしょうか。
 
 
 どうやら、文学と少女の性にかんするこの問題は、文学にとっても致命的なスキャンダルになりかねないほどに、深く広い射程を備えていることは確かなようです。永遠の美を求める芸術を下腹部に燃えたぎる熱い毒と切りはなすことなど、できないのではないか。しかし、『ロリータ』におけるナボコフの企ての核心は、美への憧れと少女の肉体への欲望を重ね合わせたうえで、さらに殺人の問題をもそこに絡ませてゆくところにあります。芸術と倫理の関係が鋭く問われることになるのは、この地点においてであるといえるでしょう。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
[引用した箇所の翻訳については、若島正訳(新潮社、2005年)を使用しています。]
 
 
 
(Photo from Tumblr)