イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

生きることと死ぬことを超えて、芸術家は思考する   ー岡本太郎『明日の神話』をめぐって

 
 これまで見てきた作品のうちでは、死の欲動とでも呼ぶしかないようなものの存在が人間のうちで働いていることが示されていたように思います。死の欲動、あるいはタナトスは、私たちのふだんの生活のなかではその存在さえもが慎重に隠されていますが、映画や音楽、文学などといった芸術のうちではふたたび表の世界に現れでてきて、人間のむき出しのリアルを示します。
 
 
 タナトスが最も明らかなかたちでそれとわかるのは、すでに見たように、暴力や性といったマージナルな領域においてですが、この衝動は、人間の心のうちでつねに変わらず働きつづけているものであると考えることができます。そして、この衝動を根底のところで支えているのは、人間を突きうごかしている不定形で根源的な心のエネルギーそのものです。
 
 
 タマ、スピリット、ガイストなど、呼び名はさまざまですが、人類は、心のなかを流れるこのスピリチュアルなエネルギーにたいして、これまでずっと畏敬の念を払いつづけてきました。確かに、私たちの時代においては、こうした呼び名はみな社会の周辺部へと追いやられていますが、こうした状況になったのは、人類の歴史からみるならば、きわめて最近のことにすぎません。
 
 
 『歌うことと欲望の真理』というシリーズにおいてすでに少しだけ見ましたが、芸術家と呼ばれる人たちは、私たちならば不安になって引き返してしまうはずのところで、さらにその奥へと進んでゆく人たちであるといえます。みずからの欲望をけっして諦めることのない彼らは、多くの場合には自分でもそれと気づかないままに、超越の領域のうちへと踏みいってゆきます。
 
 
 心のうちに開かれるこの超越の領域は、いわゆる善悪の区別を超えているだけではなく、生死の区別をも超えたところであるといえます。ジークムント・フロイトが用いた死の欲動という言葉は、この領域において働いているスピリチュアルなエネルギーを、私たちのふつうの世界の側から見たときの言葉であるとはいえないでしょうか。ふつうの世界からみるならば、芸術家たちがやっていることは、まるで死を自分から求めているようにしかみえない。けれども、彼らの方からは逆に、いわゆる生死の区別を超えた領域のほうにこそリアルなものが存在しているように思えてしまう。この観点からいうならば、人間においては、死の欲動ほど創造的なものはないのだともいうことができるかもしれません。
 
 
 スピリチュアルなエネルギーや超越の領域といったものが、じっさいには芸術家たちの見る非科学的な幻影にすぎないのか、それともこちらの方が世界の実相に触れているのかは、ここでは問わないことにしておきます。ここでは、あくまでも「世界は芸術家たちの目からどのように見えているのか」ということを問題にすれば十分でしょう。例として、現代を代表する美術家の一人である岡本太郎さんの有名な絵画『明日の神話』を見てみることにしましょう。
 
 

岡本太郎

 
 
 私たちは、第五福竜丸の事件をもとにしつつ水爆をテーマにして描かれたこの大きな絵画のうちに、とてつもない深度をはらんだ色彩と形態のエネルギーがキャンバスのいたるところを縦横無尽に飛び回っているのを、ただちに見てとることができます。
 
 
 この絵画の生命そのものをなしているエネルギーが原子力にかんする現代の科学技術と深いかかわりをもっていることは、言うまでもありません。けれども、岡本太郎さんがこの絵画のなかに人類の未来そのものを託そうとしたことを考えるとき、私たちには、「このエネルギーは、科学技術を含みこみながら人類の文明そのものを突き動かしてゆく、より大きな存在に触れているのではないか」と考えることもできるように思います。
 
 
 たしかに、水爆の爆発に示されているように、ここには死のイメージが避けがたくつきまとっていることは間違いないといえるでしょう。けれども、岡本太郎さんがこのキャンバスをとおして、生と死の区別を超えて人間をはるか先の未来へと導いてゆく何ものかの存在に身を委ねようとしていることもまた、確かなようです。
 
 
 『明日の神話』というタイトルのうちには、「人間の明日を語ることができるのは、まず何よりも神話である」という認識が含まれているように思います。原子力時代の人間の未来は、生きることと死ぬことを二つながらに包みこむような深度とスケールをもった思考によって紡がれる神話によってでなければ、描くことができないのではないか。せわしい毎日を送っている私たちには、そのように大きなスケールで考えてみようと思い立つようなことはあまり起こりませんが、渋谷駅の連絡通路で一般公開されている岡本太郎さんの絵画は、私たちにむかって今もそう問いかけつづけているようにみえます。
 
 
 ところで、すでに見たように、死の欲動の次元に人間が目覚めるときには、それまでの道徳法則はいったん停止します。それでは、人間が芸術に向かうとき、人間と人間のあいだの関係はどうなってしまうのでしょうか。善悪の彼岸に立ったうえで成りたちうる、倫理のかたちとは。この問いについて、これからいくつかのケースを挙げながら考えてみることにしたいと思います。
 
 
(つづく)
 
 
 
(Photo from Tumblr)