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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

ポップ・ソングの神学的次元   ーsalyu×salyu『ただのともだち』から、愛の体験について考える

 
 人間のうちでいったん死の欲動がアクティブ・モードに入ると、道徳法則は停止してしまいます。そうだとするならば、この欲動との深いつながりのうちにある芸術は、必然的に倫理に反してしまうことになるのでしょうか。確かに、そうしたモメントを扱っているアート作品も数多く存在していることを、すでに私たちは見てきました。
 
 
 その一方で、芸術家とは次のような問いを立てつづける人たちであることもまた、忘れることはできません。「道徳法則が働かないところで、私とあなたのあいだに、どのような関係を築くことができるのか。私とあなたがいつか善悪の彼岸で向きあうことがあるとしたら、いったい何が起こるのだろうか。」
 
 
 愛の体験においてこそ、こうした問いが最もクリティカルなしかたで投げかけられることは、言うまでもありません。愛の体験は、人間関係のなかではきわめて特殊なタイプのものであるように見えることは確かですが、もはや出来あいの道徳法則が頼りにならなくなってしまったところで羅針盤にできるのは、この体験をおいて他にないともいえます。奇しくも、この時代を代表するアーティストの一人は、こう言っています。「いつでも、どこでも、誰でも、愛してる。」
 
 
 今日の記事では、salyu×salyuというアーティストの『ただのともだち』(2011年)を土台にしながら、この点について考えてみることにします。
 
 
 この曲は、『リリィ・シュシュのすべて』の歌を担当したことでも広く知られているSalyuさんが、コーネリアスさんとのコラボレーションを行うことによって作りあげたものです。多重音声によるボーカリングの巧みさと、一見するとシンプルでありながら、色彩の鮮やかな音の織りあげるリズムがどこまでも多様に絡みあうトラックのなかに、コーネリアスさんのポップスのセンスが光っています。コーネリアスさんの音についてだけではなく、Salyuさんのボーカルについても語りたいことはたくさんあるのですが、これについては文字を書きつらねるよりも、聴いていただくのが最も手っとり早いかもしれません。ここでは、元・ゆらゆら帝国坂本慎太郎さんが担当した、この曲の歌詞のほうに移ることにしたいと思います。
 
 
 
salyu×salyu/ただのともだち
 
 
 
 言葉のうえでパトスを表明することが慎重に控えられているぶん、愛の体験がはらんでいる危機のモメントがかえって効果的に伝わってくる曲であるように思います。坂本慎太郎さんの歌詞を読むときにはいつも、「こういう歌詞を作るためには、この人の心はどれほど多くのものをくぐり抜けたのだろう?」という思いを抱かずにはいられませんが、この曲においても、短い言葉のなかに愛の体験のエッセンスが凝縮されています。いずれも、きわめて圧縮度の高い言葉であるといえそうです。
 
 
 まずは、この歌詞を参照しながら、私が愛する人のパラドックスについて考えてみましょう。私が愛する人は、この現実の世界のなかに存在するかぎり、必然的にほかの人間たちの中の一人であらざるをえません。愛するあなたは、私がこれまで会った人たちにどこか似ている。顔つきはテレビの中でよく見るあの人に、言葉づかいは昔好きだった彼に、好きな趣味は小説のなかで読んだだけの、あの作家に……。マルセル・プルーストを参照するまでもなく、愛することは、いつでも過ぎさった時を反復することであるといえます。
 
 
 ところが、愛の体験のなかには、それだけでは絶対に説明のつかないところもまた存在していると言わざるをえません。それほどにあなたは、ほかの誰とも違っている。言葉のうえでは、けっして何がどうと言えるわけではないけれど、私には、あなたの中には何かあなた以上のものが存在しているのがわかる。そのために、あなたを切り裂かずにはいられないほどのものが。この対象は、フランスの精神分析家であるジャック・ラカンによって対象aと呼ばれたものにほかなりませんが、すでに見たように、この対象aに伴う心の危機のモメントは、歌詞のうえではあえて言い落とされているようにみえます。
 
 
 実存の危機とは対照的に、この曲の中であなたについて描かれるのは、部屋でくつろいでいる場面です(「あなたは  まったり  している  とこ」)。室内のイメージは、この曲の音のかもし出す雰囲気とあいまって、きわめて大きな役割を果たしています。あなたはいる、どこかの部屋の中に、何をするということもなく。特別な出来事が何ひとつ起こらないとしても、愛する私にとっては、あなたがあなたとしてそこに存在していることが、何よりも心を揺り動かさずにはいないことなのであるということができます。
 
 
 曲の後半になってから明かされるのは、私が愛しているあなたが、この社会におけるロールプレイングの中では「ただのともだち」にすぎないということです。社会の中でのあなたは、仕事の同僚であったり、同級生であったり、ただの知り合いであったりするにすぎない。たんなる友人であるはずのあなたが、私にとっては世界そのものよりもずっと重要な存在になってしまうということ、それこそが愛の体験にはらまれている狂気であるといえますが、あなたのうちにある平凡な遠さと異様な近さを同時に明滅させて、この狂気を静かに際だたせることが、この曲のエッセンスであるということができるかもしれません。
 
 
 最後に、一点だけ付けくわえておくことにします。これは、本物の詩人でなければ出てこないイメージだと思うのですが、そろそろクライマックスにさしかかるというところで不意に出てくるヴィジョンは、鏡のなかで自問自答している、愛する人の姿です。
 
 
 私はもちろん、あなたを欲望している。それでは、私が欲望しているあなたは、いったい誰を欲望しているのか?あなたは完璧な存在であるから、あなた自身以外の何ものも必要としてはいけないはずだ。あなたが、まるで神のように鏡のなかの自分自身を見つめているというイメージは、まるで天から下ってきた啓示のように、それだけで私たちにたいして愛の体験の真理を明かしてしまっているように思います。私の心のエコノミーの中で、愛するあなたは、かぎりなく神のステータスに近づいてゆく。チャーリー・カウフマンの映画と同じく、ポップでありながらきわめて神学的な作品でもあるということができるでしょう。
 
 
Salyu×Salyu
 
 
(つづく)
 
 
 
(Photo from Tumblr)