道徳法則の及ばないところで、むき出しの人間関係を生きる。私たちの時代は、このことの意味がかつてないほど深刻に問われるようになっている時代だと思います。
こうした状況に、むき出しの暴力と性をテーマにしたエンターテインメントが巷にあふれるようになったことが大きく関わっているのは、間違いがないでしょう。ジークムント・フロイトが死の欲動という概念を提出してからもう百年近くが経ちますが、私たちはタナトスの次元と付きあってゆくよい方法を、まだ見つけられていません。
数十年前の若者たちは、どうやったら世界を変革できるのかということで心を悩ませていましたが、今の若者たちは、なぜ他者とかかわって生きなければならないのかという問いにたいして、かつてないほどに悩み苦しんでいるように見えます。彼らは、自分でも意図しないままに善悪の彼岸に投げだされてしまっているといってもいいかもしれません。
現代の優れたアートの多くは、この問いのうちでみずからの探求を行っています。今日の記事では、世界中で多大なリスペクトを受けているバンドの一つであるレディオヘッドのボーカル、トム・ヨークのソロ曲「The Eraser」 を取りあげつつ、この点について考えてみることにします。
トム・ヨークの音楽の核をなしているのは、何よりもその歌詞であると言われています。伝説的なアルバムとなった『OK Computer』以降のトム・ヨークのスタイルの変化は、一面からいえば、言葉の力が最も心の奥ふかくに突きささるような音楽を作る方向に進んでいったといえるように思います。内向的なエレクトロニカの音や、裏声を用いた独特の声色といったさまざまなエレメントは、まさにこの目的にむかって一点に収斂しているのだということもできるかもしれません。
そのトム・ヨークの歌詞ですが、この人の場合、曲全体をまとめあげる構成力によってではなく、個々のフレーズが、それだけで聴くものの内面に響いてくるところにその魅力があるケースが多いように思います。「The Eraser」の歌詞についても、本人のコメントをはじめとしてさまざまな解釈があるようですが、ここでは解釈について明確なフレームを設定せずに、ただこの曲を善悪の彼岸で鳴る音楽として聴いてみることにしましょう。
Thom Yorke/The Eraser
この曲が善悪の彼岸で鳴っているというのは、たとえば、次のようなフレーズからも言えることなのではないでしょうか。”It's doing me in, doing me in, doing me in,.....”「それが僕を殺す、僕を殺す、僕を殺す……。」このリフレインはくり返されるたびに変調してゆくメロディーと合わせて、トム・ヨークの音楽のなかでも最も美しいものの一つであるように思います。
一方、意味という点からみて重要なのは、最初のほうに出てくる、次の言葉でしょう。"Are you only being nice because you want something"「君がいい人でいるのは、ただ何かが欲しいからってだけなの?」
この世界においては、人を愛しているかのように振るまえば、その報酬を受けとることができます。ここには、何も問題などないように見えますが、ここでトム・ヨークは子供や若者たちと同じように、大人が問いかけても仕方ないと思っていることを問いかけています。「本当の意味で他の人を心の底から受けいれて生きている人が、一人でもいるのか。道徳法則を守るのは、ただ自分にとって都合がいいからというだけなのか。」これは、善悪の彼岸からこちら側の世界を眺めたさいの言葉であるということができるでしょう。
のちの方で、トム・ヨークはこの問いかけにたいして、みずから次のように答えています。"I am only being nice because I want someone, something."「そうだ、僕は誰かにそばにいてほしいし、何かが欲しいからいい人でいるだけだ。」どういうニュアンスで言われているにせよ、さまざまなことを考えさせずにはおかない表現です。"something"の部分のメロディーを高く歌いあげているのが、とても印象的です。
さて、対訳とともに、サビの部分を見てみることにしましょう。
The more you try to erase me, the more, the more
The more that I appear
The more I try to erase you, the more, the more
The more that you appear
The more that I appear
The more I try to erase you, the more, the more
The more that you appear
君が僕を消そうとすればするほど、その分だけますます
僕はあらわれてくる
僕が君を消そうとすればするほど、その分だけますます
君があらわれてくる
僕はあらわれてくる
僕が君を消そうとすればするほど、その分だけますます
君があらわれてくる
ここで語られている「君」と「僕」のあいだの関係についてはさまざまな解釈の余地があるにしても、ここには、他者関係における一つのリミットが示されているといえそうです。道徳法則が働かないとき、人間どうしの関係は、むき出しの愛と、むき出しの敵意のどちらにも振れることがありえます。むき出しの敵意の極限とはいうまでもなく、相手を殺してしまうことでしょう。その場合、人間が相手を殺したいと思うのは、相手のなかに存在している、自分にはけっして自由にならない部分が、自分にとって耐えがたいと思うからです。
哲学者のエマニュエル・レヴィナスにならって、ここでその部分のことを他性と呼ぶことにするならば、この他性には、一つのパラドックスが付きまとっています。私はあなたの他性が耐えがたいからこそ、あなたを殺したいと思う。しかし本当は、たとえ私があなたを殺したとしても、あなたがあなたであるということが消えてなくなるわけではない。あなたは確かにこの世から消えるが、私には、あなたの他性そのものを消しさることはできないのだ。ここからレヴィナスは、次のように結論します。だから、人は他人を殺すことなどできはしない。ただ、肉体を滅ぼすことができるだけだ。
トム・ヨークのここでの歌詞は、他性がはらんでいる不可能性について、私に向きあっているあなたにむかって呼びかけています。あなたをどれだけ消してしまいたいと思っても、私にはそれがどうしてもできない。なぜ、なぜ……。愛の体験においてこのことを体験する人は多いと思われますが、他性にまつわるこのパラドックスは、じつはあらゆる人間関係について当てはまるものです。
曲の終わりに鳴り響くトム・ヨークの最後の歌声は、あなたの他性を消すことが不可能であることを知りながら、それでも彼の中にいるあなたにむかってなされた呼びかけであるように聞こえます。この呼びかけは、私たちがかつて祈りと呼んでいたものにきわめて近いものであるといえるかもしれません。それは、祈りとは、ふつうの意味では決して届くことがない他者にむかっての無言の呼びかけにほかならないからです。トム・ヨークはすぐれた音楽の作り手であるだけでなく、エマニュエル・レヴィナスやモーリス・ブランショと同じく、他性の思想のラディカルな探求者でもあると言うことができるでしょう。
(つづく)
(Photo from Tumblr)