イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

唇がゼロ記号になる瞬間   ーCMが織りなす意味作用の宇宙

 
 橋本環奈ちゃんが繰りひろげるメンソレータムカンナちゃんの世界を、引きつづき探ってみたいと思います。この短い30秒のなかに、ひとつの意味の宇宙があります。橋本環奈ちゃんのこの動画について論じるにあたっては、記号学的分析について学ぶという、またとない口実……いえ、目的があるわけですから、躊躇することはありません!まるでひとつの芸術作品であるかのようにして、このCMを読みといてゆくことにしましょう。
 
 
 19世紀アメリカが生みだした知の巨人であるチャールズ・サンダース・パースが、記号論(semiotics)の領域を切りひらいて以降、人類は、映像や音のエレメントを言葉と同じような記号システムとして利用する方法をますます洗練させてきました。この状況の流れは、映画やCM、音楽のPVの登場によって加速しましたが、近年、プロのみならず、You Tubeなどを介してクリエイティブな一般人たちがこの流れに参加するようになって以来、事態はまさに日進月歩の観を呈しています。
 
 
 今日の分析では、0:10〜0:11のあいだの二秒間に焦点を当ててみたいと思いますが、このわずかな時間のあいだには、とても豊かな意味作用が折りたたまれているといえます。さっそく、このシークエンスを分析してみることにしましょう。
 
 
 
リップベリーフルーツ「メンソレータムカンナ」編(Web版)
 
 
 
0:10
 
 この部分は、記号学的にみるときわめて興味ぶかいものであるといえます。歌のほうは先ほどから、「ぷるぷるでフルーティーなリップが大好きです♫」という箇所にさしかかっていましたが、この0:10の画面に対応する箇所の歌詞は、「大好きです」のみになっています。さらに、最初は環奈ちゃんが元気いっぱいに歌っている演出であったのが、この箇所の言葉だけは、ふつうの会話のように発音されています。
 
 
 かすかにうつむくようにしながら、カメラ目線の笑顔でこちらに向かって「大好きです」と口にする環奈ちゃん。まるで、学校の校舎裏で告白でもしているかのような表情です。あくまでもCM全体の流れに沿っていながら、この画面でのイメージは、ここだけで一種の自律性を獲得してしまっています。
 
 
 ここでのテクニックは、きわめて高度なものです。このように周辺から切りはなされたとき、「大好きです」という記号は、一種の浮遊するシニフィアンとでも呼ぶべきものになり、リップクリームという特定のコンテキストを離れて、ほかのどんな記号とでも結びつきうるものとなる。
 
 
 環奈ちゃんは、そんな浮遊するシニフィアンとなった「大好きです」を、臆することなくカメラの前にいる私たちに向けてきます。「見てくださっているのがどなたかはわかりませんが、わたしはあなたのことが大好きです!」これほどまでに調子のいいセリフもなかなかないのではないかと思いますが、そういう言葉を口にする環奈ちゃんは、いつの間にか右方向への移動をやめて、私たちに正面から向かいあっています。
 
 
 今までスキップしながら歌って踊っていたはずの子が、立ちどまってまっすぐこちらを見つめている。ここでの環奈ちゃんは、シニフィアンの浮遊性を、画面の向こうとこちらを超えたメタコミュニケーションの手段として利用するという、もはやプロの領域とか形容しようのない離れ業を用いています。映画『リング』の貞子さんは、TV画面からじっさいにこちら側に出てくるという離れ業(!)を行うことで、私たちを心の底から怖がらせたものでしたが、環奈ちゃんにはそんなアクロバティックな技は必要ありません。こちらを見つめて「大好きです」といえば十分です。
 
 
 
橋本環奈
(オフショットのメンソレータムカンナちゃん)
 
 
 
0:11
 
 このCMのなかでも、核となる一秒です。曲が止まり、リップクリームのことを連想させる効果音が入るとともに、唇が大写しにされています。見ている私たちにとってはどうということのない一瞬ですが、宣伝という目的からするならば、この0:11秒こそが、このCMのアルファにしてオメガであると言ってもいいかもしれません。
 
 
 イメージも音声も、すべてが停止する瞬間。18世紀イギリスの哲学者であるバークリーにしたがって、「存在するとは知覚されることであるEsse is percipi」というテーゼを受けいれるならば、この瞬間には文字どおり、世界には唇しか存在しないともいえるし、あるいはもう少し大胆に踏みこんで、唇こそが世界であるということもできるかもしれません。
 
 
 ここの場面での唇には、まったく意味作用が働いていません。たしかに、この瞬間さえ過ぎてしまえば、環奈ちゃんが、フルーティーなリップクリームの世界をふたたび歌いあげることでしょう。しかし、この0:11の時点においてはただ、すべての意味から解放された唇だけが、虚空に浮かぶかのようにして存在しています。まるで古池に飛びこむ蛙のような、時空の原点。ロラン・バルトの言葉を借りるなら、ここでの唇はまさしく「空虚な中心 Le centre vide」そのものであるということができるでしょう。
 
 
 0:10ののちの、0:11。メタコミュニケーションののちに提示されるゼロ記号です。そのすべては、このCMを「唇についてのCM」たらしめることに向かっているといえる。記号学的分析が示してくれるのは、私たちがふだん見ているCMが何気なく行っている意味作用のうちには、限りなく豊かな宇宙が広がっているという事実にほかなりません。
 
 
(つづく)
 
 
 
(Photo from Tumblr)