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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

サペーレ・アウデ!   ーカント『啓蒙とは何か』からのスタート

 
 言論の世界についてこれから考えてゆくうえで、まずは進んでゆくべき方向をしっかりと見据えておくことにしましょう。今日の記事では、ドイツの哲学者であるイマヌエル・カントが1784年に発表した、『啓蒙とは何か』から出発して論じてみたいと思います。200年以上も昔の文章であるとはいえ、この短いテキストのうちには、あらゆる時代の言論にとって役立つことが書かれています。2015年の日本の状況について考えるさいにも、きっとコンパスの役割を立派に果たしてくれるはずです。
 
 
 啓蒙という言葉については、私たちの日常のボキャブラリーからはいささか遠くなっていますが、実はとても大切なものです。この言葉の原語は、ドイツ語ではAufklärungですが、英語ではEnlightenmentになります。Lightという言葉が入っていることからもわかるように、啓蒙とは、世界をかがやく光によって照らし出してゆくことを意味します。光といっても、どのような光によってでしょうか?それは、理性の光によってです。
 
 
 カントがこのテキストにおいて言おうとしていることは、きわめてシンプルです。「すべての人間が自分の理性を用いてゆく勇気をもつならば、きっと世界はよいものになるはずだ!」
 
 
 このことは、「サペーレ・アウデ Sapere Aude」というラテン語の標語のうちにコンパクトに言い表わされているのだと、カントはいいます。「あえて知れ」、すなわち、「自分の理性を使う勇気をもて」という意味をもつこの言葉は、私たちを強く力づけてくれるものです。こうした考え方については、実は20世紀になってから思想の世界においてさまざまな疑念が提出されましたが、大枠のところではそのまま受け継がれつづけてきたといってよいように思われます。
 
 
 私たちの世界が、前の時代よりも少しでも住みよいものになっているとすれば、それは、この「サペーレ・アウデ!」の精神がこれまでの人類の歴史を突きうごかしつづけてきたからにほかなりません。自分の頭で考えること、そしてそれを、不特定多数の人びとにたいして公表してゆくこと。何よりも、自由な言論こそが世の中をよいものにするというイデーは、近代が私たちに残してくれた大きな遺産であるといえるでしょう。
 
 
 けれども、おそらく私たちの国に住んでいる人のうちのかなり多くの人にとっては、とくに社会問題についてこうした態度をとることは、何かいけないことであるかのように感じられる部分もあるのではないでしょうか。「専門家じゃないし、色んなことを知ってるわけじゃないから、自分の意見をいうなんておこがましいことなのではないか。」
 
 
 こうした考え方がなされている背景には、高度経済成長の時期が、「パブリックな問題についてそれほど考えなくても、すべてのことがうまくゆく」というロジックが少なくともある程度までは通用してしまうという、魔法のような時代であったことがやはり大きく影響しているように思います。それから、私たちの国においては、今日においても謙虚であることが大きな美徳であるとされていることが大きいことは、間違いないでしょう。今日の記事の残りでは、この二つの点について考えてみることにしたいと思います。
 
 
 
イマヌエル・カント
 
 
 
 まず、このブログにおいてたびたび論じてきましたが、私たちの時代は、「パブリックな問題について一般のレベルで理性的な議論がなされないと、よい社会を保つことのできない時代」に移行しつつあると僕は考えています。この国にとって今いちばん必要なのは、そのための基盤をつくることであるといっても、言いすぎにはならないかもしれません。カントも、『啓蒙とは何か』のなかでは、「最初のうちは少しは失敗もあるだろうけれど、それはあまり気にしなくていいのだ」という意味のことを言っています!彼によると、勇気が必要なのはたしかですが、意外と慣れるのにはそれほど時間はかからないものだそうです。
 
 
 おそらく、僕と同じように大学の人文知の世界にかかわりを持っている人には、この論点はより切迫したかたちで感じられることと思います。自由に学問をしたいし、未来の学生たちにもそうした自由が与えられたほうがいいと思うけれども、そうするためには、自分一人の世界を超えたところで問題を提起してゆく必要がある。大学の外と内と交流させるために、まずは言論のための土台を作りだすところから始めなければなりません。深刻なのは、いま大学で教壇に立っている教授たちも、これと同じような問題に向きあったことは、これまでほとんどなかったということです。行動してくださっている上の世代の方たちはたくさんいますが、たぶんこれは、若い世代がこれから本格的に取りくんでゆかなければならない課題なのでしょう。
 
 
 最後に、謙虚であることは、とても大切です。あまり他の国のことを悪く言いたくはないのですが、たとえばアメリカにおいては、言論の自由が行きすぎていることが、少なからぬ問題を引きおこしています……。けれども、この日本についていうならば、少なくとも言論の場においては、一般の人びとのレベルではウルトラ級に控えめだといってもおそらく過言ではないので、自由が行きすぎることについては、まだあまり心配することはないと思われます!行きすぎた自由が少しでも弊害をもたらしはじめたならば、その時になってから考えることにして、とりあえずのところはイマヌエル・カントの提唱するこの「サペーレ・アウデ!」を掲げておいても、損はないといえそうです。
 
 
 理性の自由な使用によって燦然と光りかがやく、言論の世界。こう書いてみると、なんだか少しだけ危ない感じもしますが、原理的にはそれほど間違っていないはずです。この地点を出発点にすることにして、この国の言論の世界のさまざまな風景を、これから眺めてみることにしましょう。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
 
 
 
[『啓蒙とは何か』については、光文社古典新訳文庫から読みやすい翻訳が出ています(中山元訳、2006年)。この本のなかに収録されている「永遠平和のために」からは、さきのシリーズで憲法について考えたときにも、大きなインスピレーションをもらいました。「万物の終焉」というすさまじいタイトルの短論文も入っていて、おすすめの一冊です。] 
 
 
 
(Photo from Tumblr)