イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

ソクラテス的なライフスタイルへ   ーNewsPicksから見えてくる心性の変化

 
 NewsPicksについて、言論の未来を考えるうえで重要だと思える特質をもう一つここで挙げるとするならば、このアプリを利用することで、ユーザーが対話や議論にたいして自然と開かれるようになってゆくという点です。
 
 
 ある記事にたいして、自分でコメントをつける。あるいは、記事と他のユーザーがつけたコメントを対比させて読む。こうしたことをする時には、公の場における議論に近いことが行われているといえます。そこでは、ある立場から一方的に情報を与えられるだけではなく、別の立場から検討を加えたり、ある部分について反論したりするといったことが行われているからです。
 
 
 ここで、本題から少し外れて考えてみることにしましょう。実は、哲学の領域においても、一番大切なことは対話することであると言われています。考えるという行為は、一人だけの内側にとどめずに、誰かを相手にして話しあうことによって、ずっと豊かなものになってゆきます。この点については、哲学に関心をもったことのある人ならば、ソクラテスというギリシア人のことを思い出さずにはいられないところです。
 
 
 ソクラテスが歴史の舞台のうえに出てくる前にも、哲学という営みに近いものはありましたが、彼が対話することを自らの活動の核心に据えたことによって、哲学は永遠の生命を獲得するにいたりました。ソクラテスという人がなしとげたことは、ギリシアやヨーロッパといった限られた領域にとどまるものではなく、すべての人間にたいして極めて大きな意義のあることだったといえるように思います。
 
 
 かれは、それまで支配的だった「知恵のある人」についてのイメージを打ち破りました。知恵があるということは、何かについてよく知っているということではない。そうではなく、知恵のある人とは、自分が生きてゆくうえで大切なことをまるで知らないと知っているからこそ、知ることを求めつづけることのできる人なのだ。そして、そのように考える人は、さらに知ることを求めて、他の人間たちと対話することを必然的に欲するのではないか。
 
 
 私たちが生きている民主主義社会もまた、ソクラテスのこの考え方と同じ原理によって運営されてゆくものです。すでに見た、イマヌエル・カントの『啓蒙とは何か』は、ソクラテス的なライフスタイルを、すべての人間に解きはなってゆこうとする試みであるといえるように思います。
 
 
 エリートや専門家だけではなく、私たちの一人一人が、自分が生きてゆく社会のあり方について対話を行いつづけることによって、よい社会がたもたれる。その意味では、デモクラシーの根幹にはソクラテスの精神が今も脈打っているのだということができるように思います。実際のソクラテスも、知恵があると言われている人たちだけではなく、どんな人びととも分けへだてなく話しあう人だったようです。しつこいくらいに相手に絡んでしまい、迷惑をかけることもしばしばだったそうですが……。
 
 
 
ソクラテス
 
 
 
 NewsPicksで行われていることは、じっさいの対話の場合ほど受け答えの数が多いわけではありませんが、「何かの出来事や、誰かの意見にたいして自分の意見を自由に述べる」ことがこのアプリにおいて中心的な意義を占めているということは、この国において画期的な意味をもつことだと思います。
 
 
 小学校から大学にいたるまで、私たちの国の教育はこれまでのところ、対話したり議論したりすることに、それほど大きな重点を置いてきませんでした。その結果として、誰かと一つの話題について理性的に話しあうということがライフスタイルの中に入りこんでいる人の割合は、まだとても少ないといえます。
 
 
 その一方で、NewsPicksのようなアプリがいま急速な勢いでユーザーを獲得していっているのは、この国の人びとのメンタリティーが少しずつ、しかし確実に変わりつつあるという事実を示しているのではないでしょうか。何かについて議論することは、役に立つか立たないかという以前に、とても面白い。NewsPicksを愛用している人たちは、このアプリを利用することにたいして対話的な喜びを感じているのだということもできるように思います。
 
 
 私たちの国にはまだデモクラシーの原理が根づいていないとは、しばしば言われることですが、戦後の民衆史を勉強しているとわかるのは、むしろ、70年の歳月をかけて、デモクラシーに親和性の高い心のありようが、一人一人のなかにゆっくりと浸透しつつあるということです。人間の心にかかわることはとくに、長期的なスパンで見てゆかないと、起こりつつある変化を見逃してしまう危険があるといえますが、議論することにたいするモチベーションが、上からではなく下からも現れてきていることは、この70年間のなかで実現された大きな達成だといっていいのではないでしょうか。
 
 
 思い返してみるならば、講義を対話的なスタイルで行う、あのマイケル・サンデルが巻き起こしたブームも、この点からみるとその場かぎりのものではなく、時代の変化を象徴的に示すものだったといえそうです。NewsPicksのケースは、あくまでも一つの例にすぎませんが、これからのジャーナリズムの世界においては、対話的な要素のプレゼンスがさらに増してゆくことでしょう。そして、このことは、将来にたいする大きな希望を与えてくれるように思います。私たちはこれから、もう一つ別の領域を眺めてみたうえで、この国の言論の未来についての大まかな見取り図を描いてみることにしましょう。
 
 
 
 
(Photo from Tumblr)