イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

言論のマルチチュードへ!   ーこれからのデモクラシーを考えるために

 
 私たちは、言論の世界の未来を探しもとめて、ブログ文化、ジャーナリズムの世界における変化、そして、ゲンロンカフェの試みについて見てきました。これらのケースすべては、ある共通した方向を指し示しているように思われます。今回のシリーズをまとめるにあたって、ここではその方向を、「言論のマルチチュードへ」という言葉で言い表してみることにしましょう。
 
 
 マルチチュードとは何でしょうか。この語はもともと、「多数であること」や、「民衆」という意味をもつラテン語ですが、近年、哲学者のアントニオ・ネグリマイケル・ハートがグローバリゼーションのプロセスに向きあってゆくさいの軸となる概念として提出して以来、注目を浴びるものになっています。彼らによると、マルチチュードの概念は、マキャヴェッリスピノザといった過去の哲学者たちの政治思想のうちにも見てとることのできるものだそうです。ここでは、彼らの用いている意味と共通する部分もありますが、彼らの議論とは少し異なったニュアンスで、この語を用いてみたいと思います。
 
 
 手はじめに、このグローバル社会を生きる人びとすべてのことを、マルチチュードと呼んでみることにしましょう。ただし、今回のシリーズで注目したいのはこの国の言論の未来であるため、ここでは日本のマルチチュードに話を限定することにします。このとき、一体何が見えてくるでしょうか。
 
 
 まず見えてくるのは、マルチチュードの言語活動は、目まいのするような多様性をはらんだボキャブラリーによって特徴づけられるという点です。ポップ・ミュージックの歌詞、政治の言説、流行語、ビジネス用語、愛の言葉、インターネット上のジャーゴン……。挙げだすと、まだまだきりがありませんが、ここには言葉が織りなす無限の宇宙があるといっても言いすぎにはならないでしょう。
 
 
 「民衆」や「人びと」といった言葉に代えて、ここであえて「マルチチュード」という言葉を用いたいのは、私たち自身のうちに宿っている無限の多様性を強調したいからです。これらの差異はたしかに、マルチチュードが特定の目的のために一つになることを困難にしている側面もありますが、それと同時に、またとない言論の豊かなリソースにもなりえます。のちにくわしく論じたいと思いますが、僕は、マルチチュードと言論の関係を考えるにあたっては、その多様性が社会を健全なものに保ってくれるというアスペクトに注目するべきなのではないかと考えています。
 
 
 さて、この無限の多様性をはらんだ言論の宇宙を、理性的な思考の働きという観点から眺めてみたときには、次のように言うことができるように思います。
 
 
 「インターネット登場以降のマルチチュードは、理性の働きをかつてないほどの勢いで活発化させている。いまや、マルチチュードの啓蒙化のプロセスが、マルチチュード自身によって自発的に進められている。」これは、もっと分かりやすい言葉でいうならば、「今日のこの国の人びとは、情報テクノロジーの発展とともに、ますます自らの意志によって理性を用いる方向に進んでいっている」ということを意味します。
 
 
 
マルチチュード
 
 
 
 このシリーズにおいてすでに見てきたことを、振りかえってみましょう。ブログ文化のおかげで、それまでは書いたことを公の場所で発表する機会をもたなかった人びとが、自分で表現したことを自由に公開することが可能になりました。確かに、言論の自由はこれまでも原則としては認められてきましたが、情報テクノロジーの発展によってはじめて、すべての人がその自由をいかんなく発揮する機会を手に入れることができたということは、忘れることができません。
 
 
 ジャーナリズムの世界は、原理的にはすべての人がアナリストのような役割を果たしながら、与えられた情報にたいして能動的にかかわってゆく未来のあり方を指し示しています。これまでのジャーナリズムの世界においては、書き手が読者の側に特定の読み方をするように誘導することが、それほど難しくありませんでした。けれども、ジャーナリズムの世界を流れる情報は、ますます特定の人びとによってコントロールされることが難しくなってゆくように思われます。
 
 
 最後に、これから先の知の世界は、一部のエリートではなく、すべての人にたいしてますます開かれたものになってゆくように思われます。ゲンロンカフェは、それまでは大学という場に閉じこもりがちだった人文知のポテンシャルを在野の世界のうちに解きはなってゆこうとする、先駆的な試みです。このような試みは、この国にとってだけではなく、グローバリゼーションのプロセスの中で経済的合理性が優先されてゆく傾向にある、地球のあらゆる場所にとって大きな意義をもつことだと思います。専門知がなくなるわけではないでしょうが、さまざまな領域において、知識が一部のエリートの独占するものであることをやめて、万人に開かれたものになってゆくことは間違いありません。
 
 
 これら全てのケースにおいてマルチチュードは、「もっと言葉を!」と叫びつづけているかのようにみえます。内容からすると多様ではありますが、あらゆる領域で進行しつつあるのは、200年ほど前にすでにカントが論じていた、あの啓蒙のプロセスにほかなりません。このプロセスは至るところで行われているために、かえって見えにくくなっていると言えますが、私たちの地球が、かつてこれほどの量の言葉で溢れかえったことはなかったといえるように思います。 確かに、こうした事態のうちには多くの問題もすでに発生していますが、長い目から眺めてみると、世界が全体としてよい方向に向かっている部分も大きいことは否定できないのではないでしょうか。
 
 
 ネグリとハートが指摘しているように、マルチチュードを特徴づけるのは、そのポテンシャルについて考えをめぐらすこちらの方が恐ろしくなってしまうほどの、コントロール不可能性です。けれども、およそあらゆる上からのコントロールを拒むこのマルチチュードが、自発的なかたちで安定した秩序を作りだすこともありうるのではないか。このシリーズもそろそろまとめの段階に入りつつありますが、マルチチュードが作りあげる言論の世界の未来にどのようなことを期待できるのか、その大まかな見取り図を描いてみることにしましょう。
 
 
(つづく)
 
 
 
(Photo from Tumblr)