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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

マルチチュードの共生モード   ー私生活が、パブリックなものに接続する瞬間

もっと言葉を! 思想と社会
 
 私たち一人一人のことをマルチチュードと呼んでみることにすると、私たち自身のうちに宿っている多様性の側面がきわだってきます。時代が進むにつれて増大しつづけているこの多様性を、パブリックな言論の力にうまく変えてゆくプランを描くことができるならば、明るい言論の未来を想像することができるようになるのではないでしょうか。
 
 
 手はじめに、次のように言ってみることにしましょう。「これから先のマルチチュードは、私生活モードと共生モードのあいだを、ますます自由自在に行き来する。パブリックな問題にたいする議論は、共生モードに入ったマルチチュードたちによって行われるのだが、私生活モードにおいて育まれていたつながりや思考力が共生の場に転換されることによって、パブリックな議論が活性化してゆくことが予想される。」今日の記事では、これらの表現が意味することを掘りさげてゆくことにしたいと思います。
 
 
 私たちはふだん、それぞれの職業生活を営みつつ、家族や友人との関係を築いたり、自分の好きな趣味を追求したりしながら生活しています。その一方で、私たちは同時に、ニュースを見て社会問題について考えたり、選挙に行ったりするときには、プライベートの範囲を超えたところで活動してもいます。この二つの側面をそれぞれ、マルチチュードの「私生活モード」と「共生モード」と呼んでみることにしましょう。
 
 
 私生活モードにおけるマルチチュードについては、その言語活動が盛んなものになっていることにあまり異論はないと思われます。マルチチュードは、上から指示を下されることなしに、今日もインターネット上のいたるところで、言論の宇宙を充実させつづけています。マンガやゲームについての情報、学問的な知識、料理やスポーツといったさまざまな趣味の領域など、この空間の広がりにはほとんど際限がないようにすらみえます。今や、ある物事について大まかな情報を手に入れたいだけならば、たいていの場合にはインターネットだけで用は足りてしまいます。Wikipediaのようなサイトは、マルチチュードの力をうまく自らのうちに取りこみながら、きわめて効率のよい情報収集を可能にしているといえるでしょう。
 
 
 一方、共生モードについてはどうでしょうか?この点については、指摘されることがそれほど多くないようですが、あまり政治的なことに関心を持っていないと言われることの多いこの国のマルチチュードにおいても、パブリックな問題についての知識や議論は、量とクオリティーのどちらの面からみても、近年、ゆっくりと着実に充実しつつあるようにみえます。先日の記事では、NewsPicksというニュースアプリを取りあげて論じてみましたが、ブログやツイッターFacebookなどを利用していれば、たとえ望んでいなくても、パブリックな問題にかんする発言がつぎつぎに視界に入ってきます。こうしたことは、一人一人の人間がプライベートな次元からパブリックな次元へ移るのを、ますます容易にしているとはいえないでしょうか。
 
 
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 身近な例を挙げてみましょう。ツイッター上で、好きな漫画家の作品についていつも面白い発言をしている人をフォローしていたら、その人がある日、非正規雇用の問題について、立て続けに真面目なツイートをしているのを見たとします。どうやらその人は、自分自身がその問題に深く悩まされているようなのです。すでに、たんにツイートを楽しむだけでなく、個人的にもその人に親近感を抱くようになっていたとしたら、それらのツイートは、見ている人を社会における労働条件の問題に関心をもたせずにはいないことでしょう。
 
 
 このように、今日、マルチチュードが私生活のなかで作りあげる感情的なつながりは、公的な問題にたいする関心の増大に直接リンクしてゆくことができるようになっています。ニュースで見るだけならばどこか他人事だったトピックも、誰かじっさいに知っている人が関心をもって意見を発信しているとなると、そうでない場合よりも生き生きと関心が向かうようになります。
 
 
 僕個人の例でいうならば、はてなブログ上で知り合ったある人のおかげで、さまざまな種類のビールについての情報とともに、オリンピックのエンブレム問題や台風といったさまざまなトピックについて、身を入れて考えるきっかけをいただきました。これは個人的なケースですが、日々同じような体験をしているという方は少なくないのではないでしょうか。
 
 
 それから、私生活モードで蓄えられた思考力は、共生モードに切り変わったときにも、すぐに転用することが可能です。個人的な例になってしまって恐縮ですが、この点についても、具体例を挙げさせていただくことにします。先日アップしたイマヌエル・カントについての記事にたいして、ツイッター上で交流させていただいている、あるロック好きの方からコメントをいただきました。そのコメントの趣旨は、「カントの啓蒙という考え方のうちに宿っているスピリットは、まさしくロックンロールの理念と同じものなのではないか」というものでした。
 
 
 ロックンロールなどのポップ・ミュージックの力によって精神的な意味で自由になった人は、社会問題をより開かれた視点から見ることができるようになる。音楽と政治、プライベートな趣味の領域とパブリックな言論の領域を自分のなかで自由自在に接続させて生きてゆくことは、何よりも、私たちの人生そのものを豊かなものにしてくれるといえそうです。
 
 
 プライベートなところで育まれたつながりと思考力が、パブリックな議論にそのまま接続されてゆく。インターネット環境の変化を見ていると、私生活モードと共生モードを行き来するマルチチュードによってさまざまな言論が活気づく未来は、すでに部分的には到来しつつあるといえるのかもしれません。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
 
 
 
共生の問題については、『憲法と私たち』というシリーズにおいても取りあげて論じたことがあります。もしよろしければ、そちらの方の記事も合わせてご参照ください。]
 
 
 
 
 
 
(Photo from Tumblr)